連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第48話

 どこかの飲み屋で仕事をしていた、と言う事なのでちょっと気になったけど、案外朗らかそうで、子供達に優しそうなのでまぁ、これでいいんだろうと思っていた。そのあと、母の訪伯を機会に、結婚の披露宴を我家の上の倉庫で、同じ区内の人達に来てもらって行うことになった。母は喜んだ。これで母、ぬいの子供は皆所帯を持つことが出来た。巳知治のお嫁さんは富子と言った。
 一ヶ月の母のブラジル滞在中、余り遠くへは案内できなかったけど、バウルーの天理教ブラジル伝導庁に参拝し、ブラジルの広さの一端を見せた。また、雨の中のピエダーデの上村さん(熊本の泗水出身)の店を訪ねたり、サンパウロ市イピランガ区の住民で母と同じ天理教此花教会同人の石井さんに行ったりした。また、母さんの遠い親戚に当たる黒木よいさんが訪ねて来てくれたりもした。四十日間のいい思い出を胸に、母は帰って行った。

    日本企業のブラジル進出ブーム

 私達が破産騒動で暗い毎日を送っていた頃の一九六九年頃は、日本はどんどん国力をつけ、日本企業もその活動舞台を世界に拡げていた。一九七〇年代に入るとブラジルが工業化に力を入れ、外国からの投資を奨励する政策をとっていたので、日本からも一〇〇社以上の企業が進出して来た。ウジミナス製鉄、石川島造船、大洋漁業以外にも農業機械、農薬、肥料、繊維、薬品、商業とあらゆる分野に進出していてブラジルの工業化に大いに貢献していた。日伯間の貿易も急に拡大した。
 北伯、アマゾン河中流の大都市マナウスは自由貿易港として世界中からの企業誘致を計り、日本からも家電、電子産業を中心に進出し、テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫などブラジルの中流以上の家庭に供給し、その上に近隣諸国に輸出していた。
 この様なブラジルの工業化の波の中で巳知治の働く会社も共に事業を伸ばし優遇されていた。

    一九七〇年代の営農状況

 私達の営農も「バタタで作った借金はバタタで返さねば」と言う強い姿勢で頑張ったお陰で、一九七四年頃にはほとんど借金もせず自己資金での営農が出来る様になっていた。
 だが、今回の破産経験から、バタタ一本の営農の危険性を充分に知らされたことで、一九七二年五月からフランゴ(肉用鶏)養鶏を始めた。これは、私達の住むバルゼン・グランデ部落がその数年前から採卵養鶏からフランゴ養鶏に変わって来て、私のパトロンの森田さんや周りの日系人達も皆、フランゴ飼いを始めていたので、私達もその波に同調した様な形になった。

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