<日中国交正常化50年③> 2度の県上海事務所長、井川博行さん(66) 人脈生かし富裕層誘致に成功

中国と本県の幅広い交流に力を尽くしてきた井川さん=鎮西学院大

 1991年、長崎県が中国・上海市に開設した上海事務所(県貿易協会上海代表処)の初代所長として赴任。中国・アジアを中心とした県の海外観光誘致・国際交流担当も務めた。定年退職後は鎮西学院大(諫早市)の国際交流センター長。本県と中国の観光交流に全力で取り組んだ半生だった。
 「長崎県って、中国のどこの県?」-。上海事務所の開設時、痛感したのが本県の知名度の低さ。県民が抱いている中国への親近感とかけ離れていた。しかし、本県にとっては事務所開設は自然な流れ。72年の日中国交回復後、県内の自治体や経済団体は訪中団を組織し、相次いで海を渡った。79年の長崎-上海定期航空路の開設も追い風となり、現地に窓口があれば、さらに便利になると考えたからだ。
 だが、いくつもの壁が立ちはだかる。オフィスや現地スタッフ探しに始まり、政府機関への申請、交渉-。受け入れてもらうためには、まず自分を受け入れてもらう必要があった。人間関係の構築に多くの時間を費やした。
 現在、全国の自治体が構える上海事務所は28を数えるが、本県は大阪府、横浜市に続き3番目だった。他と違うのは、県をはじめ、市町村や経済・商工団体、金融機関など官民一体でのスタートだったということ。
 事務所が持つ人脈や連絡・調整機能、通訳機能などを活用。逆に上海側も希望する分野で本県企業などとのマッチングが効率的になった。観光客や修学旅行生の本県誘致、県産品の新たな市場づくりにも取り組んだ。
 頼まれたことは、どんなに難しくても断らない-。交流の「主役」は県民と中国の人たちであり、私たちは裏方、困った時の駆け込み寺だった。県民のさまざまな活動が県全体の日中交流の原動力となり、全国で類を見ない関係を築いた。
 転機は2000年。中国人団体観光客のビザが解禁となり、海外観光誘致の最前線へ。04年、2度目の上海事務所長に就いたが、観光旅行の人気は東京、大阪に集中。知名度不足と交通に難がある本県は、誘致活動をどんなに頑張ってもかなわなかった。
 そこで、個人・少人数グループ、特に富裕層にターゲットを転換。人脈を生かし、上海ゴルフ協会や上海フェラーリ協会など超富裕層の誘致に成功した。
 鎮西学院でも、大学生や自治体、企業などを巻き込み、国際交流を展開。20年以降のコロナ禍でストップし、以前のような交流ができるか不透明だが、人と人との縁を大切に、顔の見える関係を再構築できると信じている。


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