連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第49話

 最初は森田さんからユーカリ材を売ってもらい、それを硫酸銅を吸わせて、それを柱として鶏舎を建てた(註:この鶏舎は三十五年経った今も立派に建っている)。
 はじめ月間出荷量一三五〇羽であったものが、一九七六年頃には六〇〇〇羽に増えていた。養鶏のモビメントはバタタの売り上げより多くなった。バタタの植え付けは破産騒動の後は無謀な拡張は止め、年間最大三アルケールにおさえていたので余り金を借りずに営農出来たけど、フランゴ養鶏はモビメントが大きいだけに、飼料の購入にはそのほとんどをコチア組合の信用部から借りていた。でも、フランゴ養鶏は入雛から出荷まで六十日と回転が早いので資金繰りは割合に楽であった。
 そして、バルゼン・グランデ部落ではフランゴ養鶏が一大産業となり、養鶏団地化して来ると、ニュー・カッスルとかコリーザとやっかいな病気が養鶏家を苦しめる様になった。コチア組合の農事部畜産課の技術指導で防疫に懸命に努めたけれど、特にニュー・カッスル病はこのバルゼン・グランデで常在化する様になって、古い養鶏家の中にはそのためにコチア組合に大きな借金を残す人達がかなり出てきた。
 幸い私達はバルゼン・グランデの中心から十四㌔と離れていたこともあり、ニュー・カッスル病から免れてはいたけれど、やはり動く大きな金が借金と言うこともあり、常に危機感は持っていた。動く金は大きくても手許に残る利益は小さかったからである。
 その上、この頃、政府はフンルラールと言う農村基金の積立てを義務付けてきた。これは売り上げに対して三%だったと思う。これを払えば健康保険や定年退職後の年金が保証されることになっていたのだが、利益の少ない動かす金の大きい養鶏家にとってはかなり重い負担であった。
 この様にバタタと養鶏の二本建て営農も倒れ難いと言う考えから始めたものだけれど、七~八年と続けていくうちにその営農環境が非常に悪化し難しくなってきた。
 又、バタタ作りもそのほとんどが借地で家から五㌔も六㌔も遠くまで出掛けて作付けしていたので、もうこれ以上遠くまで借地するのにかなり抵抗を感じていた。この様な営農状態に行き詰まりを感じていて、何とか打開の道はないものかと探していた。

  子供達の中学校、高校時代

 子供達も成長していた。長女のるり子は高校卒業間近で大学入試に頭を痛めていた。長男の悟もサンロッケ市の高校にバルゼン・グランデ日語校の寄宿舎から通っていた。次女、恵美と、末っ子の絵理子は中学生で同じくバルゼン・グランデの寄宿舎で生活していた。

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