連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第50話

 長女のるり子は小学校の四年生をバルゼン・グランデの寄宿舎で過ごし、そのあと、当時厳しいしつけをすることで有名であったサンロッケ市の丘の上学園に移った。この学園は当時六十才位であられた茅根先生が三十名位の生徒を寄宿させ、日本語と日本的なしつけを指導していた。そこにはかなり遠隔の地からも寄宿している子供もいた。そこでプリマリオ(小学八年まで)を終えるとちょうど、その頃、私達のシチオ(農場)の隣にモラーレスと言うある銀行の重役さんが別荘を造って、自分の息子をサンロッケの学校に送り迎えすることになり、そこの奥さんのドナ・ノエミーに一緒に便を借りてしばらくの間、多分一年近く我が家から通ったのではなかろうか。
 そのあとは高校二年生になる頃から、やはり私達の近くの塩見さんの土地を借地して野菜を作っていた牧之瀬さん(宮崎県人)の娘さん二人がサンロッケの町で美容院をやっていて、その娘さんたちと一緒に住まわせてもらい、そこからサンロッケ高校で学んでいた。るり子の日本語の会話はこの二人の娘さんと一緒の時に大いに上達したようだ。
 長男の悟は父親に似て、一六〇㌢位と背が伸びなかったけれど、スポーツも野球と陸上競技で頭角を現し、野球では名キャッチャーとしてチームのまとめもうまく、先生の信望を得ていた。
 高校に入るとジュニアのカテゴリとなり、対外試合で全伯的に動く様になる。又、陸上競技では走るのは得意ではなかったけど、投てきの円盤投げ、砲丸投げ、やり投げで、ある期間スドエステ地方の記録を維持してきた。
 次女の恵美は人より特別に秀でる様な事は余りなかった。おとなしくて、優しい子で、それでも他の子供達と比べれば学業でもスポーツでもいつも最上の部に入っていた。末っ子の絵理子については前に説明したのでここでは省略することにする。

    一九七八年に電照菊栽培を始める

 一九七六年頃だっただろうか、コチア青年仲間の日比野さんから花作りをやってみないかと再三誘われたことがあった。
 日比野勝彦さんはバルゼン・グランデでの農業を止めて、サンパウロ市の近くに小さな土地を買って、そこでイビウーナ市の斉藤さんの電照菊を主体に花の販売業を営んでいた。彼も自分の事業拡張を考えて、花の出荷をしてくれる生産者を探していたのだろう。「花作りは安定していて儲かるぞ」と力説していた。

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