教育通し友好に功績 那須塩原出身の中国語学者・故香坂さん 日中国交正常化50年

大田原高応接室にある香坂さんが執筆した辞典や著書

 日中国交正常化から29日で50年。両国関係はいまだ多くの課題を抱えつつも、本県と浙江省との友好県省提携など地方や民間レベルでの交流は進む。そうした中、かつて教育を通じて日中友好に大きな功績を残した本県出身の中国語学者がいたことは、あまり知られていない。那須塩原市出身の元大東文化大学長香坂順一(こうさかじゅんいち)さん(1915~2003年)だ。次世代に日中関係の進展を託した。

 大田原高応接室の書棚には、香坂さんが執筆した「支那語文法詳解」(1941年発行)などの著書が6冊並ぶ。同校卒業生の矢口一也(やぐちかずや)主幹教諭(50)は「本は同窓会が収集したようだ。ただ香坂さんという同窓生がいたことは知らなかった」と話す。

■ブーム到来

 香坂さんは33年に旧制大田原中を卒業。東京外国語学校(現東京外国語大)で中国語を学び、教職に就いた。広州留学などを経て終戦は台北で迎えた。

 戦後いったん郷里に戻ったが、50年に短大教授の職を得て本県を離れた。中国語の普及と友好を担う人材の育成に励んだが、道のりは平たんではなかった。

 大東文化大の大島吉郎(おおしまよしろう)教授(65)によると、戦後しばらくは「中国語を学んでも就職先がない」と言われ、学習者は少なかった。それでも香坂さんは隣国との関係を重んじ、研究や指導に情熱を傾けた。都内在住の長男で医師の隆夫(たかお)さん(79)は「中国への贖罪(しょくざい)意識が友好への信念を形成したのでは」と推察する。

 72年の国交正常化は大きな転機だった。共著がある日本中国語検定協会顧問上野恵司(うえのけいじ)さん(82)は「中国ブームが起き、香坂先生はテキストの執筆やテレビ、ラジオの講師と大忙しだった」と振り返る。辞典の編さんや同協会設立など、学習環境の向上に奔走した。

■太いパイプ

 92年には、北京外国語大に日本人留学生のための国際交流学部(現中文学部)開設で尽力。中国語を話し中国人の考え方を知る「日中の架け橋」育成に力を注いだ。同学部東京事務所の鄭新培(ていしんばい)理事兼事務局次長(77)は、香坂さんが周恩来(しゅうおんらい)の下で対日政策に当たった廖承志(りょうしょうし)ら中国上層部との太いパイプを生かし実現させたと指摘する。

 香坂さんは晩年、自身の生涯について、「中国語教育を通じて若い人の目を、これからのアジア、これからの世界に向けてもらいたいという念願の実現の努力の継続であったことは疑いありません」と著作に記した。両国を結ぶ人材の重要性を最後まで力説していた。

香坂さんが執筆した辞典や著書が並ぶ書棚=9月22日、大田原高
香坂順一さん(NPO法人国際交流教育後援会提供)

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