“ハイカラさんの街” 雲仙温泉街の記憶 戦後GHQが接収、幼心に残る米国

接収された雲仙有明ホテルで米軍人が開いたクリスマス会の写真を示す栗原さん。写真は栗原さんが雲仙ビードロ美術館の展示資料に提供した=雲仙市小浜町雲仙、同美術館

 「ハイカラさんの街」-。明治以降、中国・上海に居留する欧米人がひと夏を過ごす避暑地としてにぎわい、西洋式のホテルが複数建てられた長崎県雲仙市の雲仙温泉街。日本語と英語で書かれた看板が立ち並んだ温泉街は1941年の太平洋戦争開戦で一変し、欧米色が取り払われた。ホテルは戦時中は旧日本海軍の療養所に、戦後は米軍将兵の保養施設になった歴史がある。
 標高約700メートルの同温泉街の涼しい気候と豊かな自然が欧米人に好まれた。雲仙地域は1911年、日本初の県営公園に指定され、外国客を誘致する観光産業が本格的にスタート。13年に県営のテニスコート、ゴルフ場が開場。礼拝堂やダンスホール、ビリヤード台、酒場などを備えた娯楽場も設けられた。34年には日本で最初の国立公園に指定された。
 太平洋戦争が開戦した後の43年、同温泉街のホテル7軒が佐世保海軍病院舎となり、軍人が療養するようになった。英字で書かれていたホテルなどの看板の多くが、警察に促されて消された。当時を知る住民は少なくなったが、雲仙九州ホテル前社長の七條健さん(85)は、英字で「KYUSHU HOTEL」と記された看板がペンキで塗りつぶされる様子を幼心に覚えている。「作業をする大人に理由を尋ねると『英語は消さんば』みたいなことを言われた」
 終戦翌年の46年から50年までの間、連合国軍総司令部(GHQ)が各ホテルやゴルフ場などを接収。接収された雲仙有明ホテルの前社長、栗原盾夫さん(79)は、米軍人が同ホテルで開いた46年のクリスマス会の写真を残している。栗原さんは家族とホテル内に暮らしていたため、写真には当時3歳だった栗原さんの姿もある。

温泉神社前で写真に納まる米軍将兵=1946年、雲仙市の雲仙温泉街(栗原さん提供)

 「記憶にあるのは4~5歳からだが、館内は常に米軍人が滞在し、ジャズやカントリーミュージックが流れていた。皆とてもフレンドリーで、ドーナツやクッキーを食べさせてもらった」。栗原さんは「今にしてに思えば、接収され米軍人をもてなした両親や従業員の気持ちは複雑だったろう」と思いをはせ、「それでも幼かった私にとって米国人は格好良くて、あこがれの存在だった」と懐かしむ。
 同温泉街の住民の多くが接収された複数のホテルで働き、苦労しながらも生活を送ることができたという。接収が解かれた後もベトナム戦争が終わった75年頃まで、佐世保市の米海軍基地の水兵が同温泉街のホテルを利用していた。
 現在、2020年からのコロナ禍で入国が制限されていた外国客の受け入れ再開が進む。栗原さんは「外国客がいない雲仙温泉街は、塩こしょうがない料理のようで味気ない。寂しい」。誰もが旅行を楽しめる日常のありがたさをかみしめ、遠い記憶に思いを巡らせた。


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