五島・福江大火60年 元消防団員が証言 「日ごろの備え、声かけ大切」教訓に

自宅近くの消火栓のそばで「消火に必死だった」と振り返る上戸さん=五島市栄町

 1962年9月26日に起きた福江大火から60年がたった。被災面積13ヘクタール超、600戸余りを焼いた長崎県内で戦後最大の火災。当時、消防団員として消火活動に奔走した上戸正治さん(82)=五島市栄町=は「猛烈な火の勢いで身の危険を感じた」と証言。日ごろの備えや周りの声かけの大切さを訴えた。
 上戸さんは当時、栄町の自宅兼店舗で、両親やきょうだいと暮らし、家業の精肉店を手伝っていた。
 午前2時過ぎ、サイレンの音で起床。消防団の法被を着て玄関を出ると、海岸方面の空が真っ赤に染まっていた。近くの消火栓辺りでは、既に近所の男性たちが道脇の格納庫から取り出したホースをつなぎ、100メートルほど先の現場に向かっていた。上戸さんも加わり、懸命に放水した。
 しかし、波浪注意報が発令中で、海岸から北東の強風が吹き付けた。一帯はまだ防火水槽が整備されておらず、川や海からの取水が頼りだったが、当時は干潮。島内に消防署はなく、初期消火が遅れたという。

海上(手前)からの強風で火災が広がる旧福江市街地(長崎新聞社所蔵)

 石油店に燃え移りそうになったため、上戸さんらは撤退。その直後「ドーン」と激しい音がした。「道幅が狭く熱風と火の粉が吹雪のように吹き付けてきた」。風にあおられた火は、市街地に拡大。木造の建物が密集し火の回りが早かった。城下町で丁字路が残っていたことも消火活動を妨げた。途中、ガス爆発が発生し、20~30メートルの火柱が上がる光景も。消防団に入って3年目だった上戸さんは「とにかく消火することしか頭になかった」と振り返るが、やむを得ず放水すらできない区画もあった。
 消防団の仲間とも合流し、調達した雨戸を盾にしながら放水。鎮火したのは午前8時過ぎ。最初の放水現場から約500メートル離れた場所だった。同僚の団員たちはみな、異物が入った影響で、目を赤くさせていた。
 近くの消防団班長宅でにぎり飯を食べて、自宅近くの倉庫で両親やきょうだいの無事を確認。だが、自宅は全焼。業務用の冷蔵庫が形をとどめていた。しばらく寺に身を寄せた後、他の商店らと同様にバラック小屋を建てて再建した。
 未曽有の火災でありながら、死者はゼロだった大火。迅速な避難誘導があったおかげだと後から聞いた。住民同士が声を掛け合ったことも要因だと上戸さんは考える。「高齢者の1人暮らしが多くなっている。火災に限らず他の災害でも日ごろからの声かけや備えが大切ではないか」と教訓を語る。


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