“戦争に市民巻き込まないで” 恋人や父親に「赤紙」 長崎県内の女性たち 心痛む露の「動員」

召集令状が届いた義朗さんに寄せられた「餞別」の記録を見る深堀さん=長崎市高尾町

 ロシアのプーチン大統領がウクライナ侵攻を巡り表明した予備役の「動員」。若者らの抗議デモや国外脱出など混乱が続く。かつて太平洋戦争中の日本でも、「赤紙」で市井の男性が戦地にかり出された。「国の都合で一般市民を巻き込まないで」-。80年近く前の悲惨な体験を思い起こし、一刻も早いウクライナでの停戦を願う人たちが長崎にもいる。
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 9月末。長崎市高尾町の深堀リンさん(95)は「入営御銭別表」と記された古い冊子を手に、記憶をたどった。「入隊した時のお祝いでしょう。私は行ってほしくなかったけど…」。20歳で召集令状を受け取った夫義朗さん(2014年に90歳で死去)に、親戚や近隣住民から寄せられた「餞別(せんべつ)」の記録。自宅の戸棚から最近見つかった。
 日本の戦況が悪化していた1944年。同市稲佐町1丁目(当時)の工場に勤める2人は、恋人同士だった。当時17歳のリンさんは事務員。義朗さんは技術に優れ、若くして工場長を任されていた。
 その日は、突然訪れた。「とうとう来た」。義朗さんはリンさんに、赤紙が届いたことを淡々と告げたという。「本音」を必死に抑え込んだリンさん。「どんなに嘆いても、当時はみんな赤紙1枚で戦地に行くんですから。『行ってほしくない』とは絶対に言えなかった」
 義朗さんはカトリック信徒。リンさんと婚約し、教義を「覚えられるだけ覚えて」と言い残して国内の部隊に配属された。リンさんは周囲に弱音も吐けず、日本が“勝利”したとの一報が入ると、祝いのちょうちん行列に加わった。無事をただ祈ることしかできない不安は、「あの時分を過ごした者にしか分からない」との思いがある。
 今、ウクライナやロシアでは女性や子どもたちが、夫や恋人、父親を兵隊に取られ、悲しみに暮れている。そうした姿をニュース映像で見て、リンさんは自分のことのように心が痛む。「国の指令では、どうすることもできないのです」
 義朗さんは国外に出征することなく、終戦後に復員した。一方でリンさんは長崎で被爆し、浦上川に折り重なる無数の遺体を目撃。核の惨禍が二度と繰り返されないよう被爆体験を証言してきたが、プーチン大統領は市民を巻き込んで戦争を押し進め、核兵器で世界を脅す。「人間を絶滅させてしまう。そんなことは、もうやめて」。リンさんは、そう憤る。

「昭和十九年九月三日 入営御銭別表」と書かれた冊子。義朗さんが自宅に保管していた。中には一人一人の名前と金額が記されている

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 島原市城見町の馬場フミヱさん(89)も今のウクライナ情勢を、一家の戦争体験と重ね合わせる一人。父親は太平洋戦争末期に召集され、異国で命を落とした。「国のすることだから反対もできない。肉親と離され、人殺しをさせられるのはあまりにも非情」と語気を強める。
 両親と兄、弟の5人家族で、開戦前から旧満州に暮らしていた。父繁男さんに赤紙が届いたのは、1945年8月。終戦の数日前だった。
 繁男さんが召集されて間もなく、軍に所属する兄を除く3人は、避難の指示を受け日本を目指した。しかし朝鮮半島北部で交通が止まり、そこで終戦。1年ほど足止めを食った後、ソ連兵の影におびえながら夜の山中を歩き、何とか釜山にたどり着いた。
 引き揚げ船で帰国した数年後。繁男さんと行動を共にしたという男性が訪ねてきた。戦後、繁男さんはシベリアに抑留され、病で亡くなったという。召集は終戦の直前だから戦場には行かず、どこかで生き延びているはず-。そんなフミヱさんの願いはかなわなかった。「戦争なんか一つもいいことはない。みじめで、つらい思いをした」と、フミヱさんは声を震わせた。


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