『鎌倉殿』実は堂々としていた平賀朝雅 「討手」の報に慌てず後鳥羽上皇に報告 "軟弱な悪役”ではない!?

1205年閏(うるう)7月20日、北条時政は、3代将軍・源実朝を廃立しようとしたとして、鎌倉から伊豆に追放となります。時政は源氏の平賀朝雅(山中崇)を実朝に代わる将軍にしようとしたのです。朝雅と言うと、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」においては、鎌倉武士とは異なり、貴族のような格好をし、策謀(執権になりたいために、時政の子・北条政範を毒殺)を巡らす、悪役として描かれていました。その平賀朝雅にも、最期の時が迫っていました。

同年閏7月26日、朝雅は、後鳥羽上皇のもとで囲碁をしていました。そこに朝雅の召使いの少年が駆けつけています。朝雅を討てとの命令が鎌倉から発令され、追討使がやって来た事を伝えたのです。時政追放の同日、北条義時(小栗旬)は、三善康信や安達景盛らと相談し、京都に使者を派遣。この使者には、平賀朝雅を討てとの命令を京都にいる御家人に伝える役目がありました。

さて、召使いから、追討使の件を聞いた朝雅は『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)によると、驚くこともなく、堂々としていたようです。この点は、ドラマの朝雅のイメージとは異なるように感じました。ドラマの朝雅なら、慌てふためき、恐怖に顔を歪めるように思ったからです。アニメや漫画にあるキャラクターとして、陰謀は巡らすが、危機が迫るとジタバタする軟弱な悪役イメージです。

ところが、実際は、朝雅は召使いから討手のことを伝えられても、驚かず、また囲碁をしていた元の席に戻ってきます。そして「関東から私を討つための使いが差し向けられました。逃げるにも頼りになるところはありません。早く退出をお許しください」と後鳥羽上皇に許しをこうのでした。

退出後、平賀朝雅は、六角東洞院にある宿舎に戻ります。しかし、そこに五条判官平有範・後藤左衛門尉基淸・源三左衛門尉親長・佐々木左衛門尉広綱・佐々木弥太郎高重らの追討軍が攻め寄せるのです。暫し、朝雅は防戦しますが、防ぎきれずに、松坂(山科区日ノ岡)辺りまで落ち延びます。金持六郎広親・佐々木盛綱らは、朝雅を追撃。山内持寿丸という者が、弓矢で朝雅を討ち取ることになるのです。

8月2日には、朝雅を討ち取ったとの知らせが、鎌倉に伝えられます。ドラマ視聴者からは、朝雅に対する反感が強まっていたようですので「悪役」朝雅の最期に快哉を叫んだ人も多いのではないでしょうか。

さて、今回のドラマでは、北条義時が執権に就任することも描かれていました。一説によると、父・時政の失脚を受けての執権就任と言われていますが、元々、事実上のトップを狙う意思はあったのでしょうか?時政の長男は、宗時(石橋山合戦で戦死)ですので、次男の義時は北条家を継ぐ立場ではありませんでした。また、その後は、時政とその後妻・牧の方(りく)との間に生まれた政範を、時政は後継者に考えていたとの説もありますので、義時は時政にはそれほど好かれていなかった可能性もあります。

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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