勝算は「全く無かった」が「やらざるを得なかった」大阪回帰  松井一郎前代表が振り返る日本維新の会10年の歩み

 日本維新の会の前身の政党結成から10年が過ぎた。結党当時から屋台骨として支えてきた松井一郎前代表(大阪市長)が9月上旬、共同通信の単独インタビューに応じた。大阪の地方政党を出発点に、野党第1党を狙うまでに党勢を拡大した経緯を振り返り、今後の目指すべき党の在り方について聞いた。(共同通信=木村直登、広山哲男)

インタビューに応じる日本維新の会の松井一郎前代表=9月、大阪市

 Q 旧日本維新の会設立の背景は。

 A 政治団体・大阪維新の会は、大阪府市の二重行政を解消するため「大阪都構想」の実現を公約に掲げた。そのために法整備が必要だったので、2012年の年明け早々から大阪市長だった橋下徹氏の下で国政を目指す活動をスタートさせた。 当時は民主党政権。長年の自民党政権から交代した期待値も大きかったが、意思決定ができなかった。官僚支配をやめると言って、古い体制を崩したのは良いが、その後、国民のために再構築できなかった。あまりにもひどかったね。

 だからって自民党政権にそのまま戻すわけにはいかない。国民目線、納税者の視点で、税金の使い方を決める政党を地方から創設する必要性を感じた。それで、東京都知事だった石原慎太郎さんとがっちり手を組んで、東京と大阪から日本を変えることを目指した。

太陽の党が解党して日本維新の会へ合流することを発表し、笑顔を見せる新代表の石原慎太郎氏(左)と代表代行に決まった橋下徹氏=2012年11月17日、大阪市

 2012年8、9月ごろ、橋下さんに対する支持率は自民党と横並びくらいあったんじゃないかな。だから、メディアの中で「大阪知事、大阪市長を辞めて、国政にかじをきれば期待値は大きい」と言うコメンテーターもいた。ただ、橋下さんや僕は国政に行く気持ちはさらさら無かった。やらなければいけないのは、大阪都構想の実現だったから。結果として、そのことで期待値がしぼんでしまった面もあるかもしれない。

 Q 当初、手を組んだ石原氏と、他党との合流の中でたもとを分かつことになった。経緯は。

 A 持続可能な日本を作るための第三極が必要だという意識を共有していた渡辺喜美さんや江田憲司さんのグループと交渉していた。ただ、「一寸先は闇」と言われる伏魔殿的な永田町で、裏切ったり裏切られたりしてきた人の集まり。国会議員は自分がトップじゃないと納得できないという性格の人が多くて、心の底からの信頼関係は作れなかった。

 政党としての影響力を大きくするため、小異を捨てて大同につこうと、江田さんグループと一緒になると決断したが、石原さんとその周辺の人たちが了承できないとなり、日本維新の会は分裂をしていく。

 分かれる時、石原御大は「星影のワルツ」(千昌夫)を歌っていましたね。「別れることは、仕方がないんだ、国のため」って(「君のため」の替え歌)。 僕らからのお願いとして「維新の名前は引き継ぎますよ」と伝えた。石原さんのグループの中からは反対の声もあったが、御大は「バカなことを言うんじゃない。維新の名前は松井君たちが作ったんじゃないか。その名前をわれわれが取るわけにはいかない」とはっきり言ってくれた。だから、引き続き「維新」の名前を使うことになったんです。

 Q その後、江田氏らと「維新の党」を結成するが、分党し、現在の日本維新の会の前身となる「おおさか維新の会」を立ち上げる。

 A 党内が一番ガタガタし出したのは2015年5月17日。「都構想」の住民投票が否決されて、橋下さんが政界引退を表明した。当時の「維新の党」は橋下さんの発信力や魅力でなんとか支持率を維持していたので、橋下さんが引退するとなった瞬間、みんな保身に走り、右往左往し始めた。そういう人たちと一緒にやっていても、政治集団として公約を実現することは不可能。なので、原点に回帰して「大阪維新の会でやろうよ」となった。元々石原さんのグループで、大所高所から指導してくれた片山虎之助さんに共同代表を担っていただいて、2015年12月におおさか維新の会がスタートするわけです。

「おおさか維新の会」の結党大会で、壇上に立つ(左から)橋下徹大阪市長、松井一郎大阪府知事、吉村洋文氏=2015年10月31日、大阪市(肩書はいずれも当時)

 Q 橋下氏が政界引退するタイミングで立ち上げた「おおさか維新の会」。当時、勢力拡大の勝算はあったのか。

 A 全く無かった。僕としてはやらざるを得ないということでやりましたよ。だって、日本維新の会が最初に国政選挙に挑戦した2012年の総選挙で初当選した大阪組の国会議員がいるから。現代表の馬場伸幸議員とか。そこで解散するわけにいかない。本当は僕も一緒に引退するつもりだったが、都構想をもう一度という思いもあった。勝つとか負けるとかじゃなくて、やらざるを得ないという思いだけだった。

 Q 現在の日本維新の会の勢力拡大に対する評価は。

 A 大阪知事、大阪市長として行政を動かすポジションに就かせてもらった。100人が100人から支持なんてもらえないが、結果として大阪が「良くなった」「住みやすくなった」という評価を頂いた。大阪と大阪以外とでは期待値や実行力は違うかもしれないが、国政の場でも同じ様に支援していただけるのではないかと思っていた。

 維新は固定の支持組織を持っていないので、勢力拡大は簡単ではない。固定の支持団体を持つと、しがらみのない改革はできなくなる。だから、議員一人一人が支持を固めていくことを大切にして、30を超える府県で地元組織ができた。まだ、規模が小さくて数名のところもあるけれど、もともと大阪のローカルパーティーからスタートして、着実に全国で支持を広げ、理解されてきているのではないか。

日本維新の会の歩み

 Q 大阪の首長でありながら国政政党の党首を務めることの利点はあったか。

 A 直接的に国に問題点を指摘したり、地方都市として提案したりできること。霞が関も地方自治体の首長の発言は無視できない。他の地方の首長も頑張っていると思うけど、多くは選挙で与野党の支援を受ける相乗り。それだとやっぱり市民の気持ちも冷めますよね。僕の場合は政府からも、ややこしいなと捉えられていたと思う。野党から国を動かすという意味で、うっとうしがられることで仕事がしやすくなるという所はあった。

 Q 8月の代表選を経て馬場伸幸氏が新党首となった。松井氏と馬場氏のトップとしての違いは。

 A 僕はどちらかと言うとトップダウンで組織を動かしていくタイプ。自分の信念というか本能の中で、マルかバツをはっきりさせて、ある意味、強引に進めてしまう。けれど、馬場代表はさまざまな方面に配慮して調整しながら物事を進めてくれる。それは馬場代表の良い所。僕の時より風通しが良くなるのではないか。

日本維新の会の新代表に選出され、記者会見する馬場伸幸氏。左は松井一郎前代表=8月、大阪市

 Q 都構想の住民投票で公明党の協力を引き出すために大阪、兵庫の六つの衆院選の選挙区で候補者を立てない選挙協力をしてきた。そうした他党との調整は今後、誰に引き継いでいくのか。

 A それは選挙の責任者である幹事長の役割です。馬場代表の下では藤田文武幹事長。経験がまだ少ないかもしれないが、誰もが最初、経験なんてない。僕は橋下さんの下で幹事長をやったが、自民党にいた時に幹事長はやったことがなかった。藤田さんも仕事をやりながら成長していくのではないか。

 Q 野党共闘について、従前から政策一致が前提だと主張されている。今後の展望は。

 A 選挙で共闘するには、枝葉の政策の一致ではダメ。外交、安全保障、通貨政策といった国の在り方に関わる根幹が一致していないといけない。 政党は、政策を実現するための結社であって、選挙は政策を選択してもらう。政策がバラバラの野合談合の状態で、選挙を戦うのは有権者に失礼だ。

 Q 党勢拡大して比較第1党になり、政策実現のために、他党と協力することになった場合、どの党と協力ができそうか。

 A その時の選挙の結果次第だ。政策を立案し、予算編成権を持っている政府、行政側に対して、影響力を持つためには、数を増やして、無視されない形を作るしかない。それが政策を実現させるルートだ。

インタビューに応じる日本維新の会前代表の松井一郎大阪市長(9月6日、大阪市で撮影)

 Q 自公政権と連立する余地はあるか。

 A ゼロパーセントやね。連立入りするとなると与党内の多数の中で決まったことには従わないといけない。公明党は選挙で支持母体があって、自民党を動かしていく。われわれのような支持母体を持たない政党は埋没するだけです。

 Q 今後の党運営について後進にメッセージは。

 A われわれは元々自民党にいたので、外交安全保障の分野など大きな政策で違うところはない。自民党と違うのは、身分にこだわらずに本気で改革をやってきたところだ。

 東日本大震災の後、復興税を導入したとき、増税をするのではあれば政治家が身を切る改革をやろうよと約束した。われわれは約束を守ってきているけど、他党の国会議員は選挙が終われば国民は忘れるということで、知らんぷりしてしまう。そういうのは維新の会にあってはならん。次の世代にはこの「初心」をぜひ引き継いでもらいたい。

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