モーツァルトとドストエフスキーの共通点はバクチ?偉人にまつわるお金のエピソード

偉業を成し遂げたあの人はいくら稼いでいたのか−−気になる方も多いのではないでしょうか?

そこで、歴史エッセイスト・堀江宏樹( @horiehiroki )氏の著書『偉人の年収』(イースト・プレス)より、一部を抜粋・編集してモーツァルトとドストエフスキーにまつわるお金の話を紹介します。


ギャンブラーの才能もあったモーツァルト

実は稼いでいたモーツァルト

2016年のアメリカでもっともCDが売れたアーティストは、なんとあの モーツァルト だったそうです。クラシック・ファンはストリーミング配信などでは満足せず、より音質がよいCDを買う傾向が強いのかもしれませんが、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの人気がいかに高いかがわかります。

こう聞いて、「生前のモーツァルトは人気の衰おとろえに苦しみ、多額の借金を残して亡くなったのに……」と、残念な思いに囚とらわれる人もいるかもしれません。

ところが、音楽学者ギュンター・バウアーによると、モーツァルトは晩年の10年間(1781~1791年)、平均4500グルデンもの年収があったそうです。これが事実なら、「素晴らしい音楽を残しながらも、凡庸な聴衆に理解されずに貧困にあえぐ天才モーツァルト」という定番のイメージの半分くらいは正しくないようですね。 1350万~1800万円 相当の年収を得て生活していたことになりますから……(1グルデン=3000~4000円で計算)。

モーツァルトの人気低迷は事実だったにせよ、死の年である1791年においても、3725グルデン(= 約1100万~1500万円 )もの収入があったと、ブラウンベーレンス博士は状況証拠をもとに試算しています。これらのデータが示唆するのは、おそらくモーツァルトは音楽以外の手段で大金を稼いでいたということです。

一方で、高収入でありながら、知人に泣きついて借金をした記録もあれば、彼が病没した時には5000グルデン(= 1500万~2000万円 )もの大口負債も判明したと、妻コンスタンツェが証言しています。

かつては高級温泉地で浪費を繰り返すコンスタンツェのせいでモーツァルトは困窮したとされましたが、彼女が貧困の直接原因ともいえないようです。モーツァルトは家計のやりくりに妻を関与させようとはしませんでした。モーツァルトの支出はあまり明確ではなく、それどころか意図的に消し去られた形跡すらあるのです。モーツァルト家のバランスの悪すぎる収入と支出、この謎を解く鍵はどこにあるのでしょうか?

モーツァルトのギャンブル中毒

バウアーの著作『ギャンブラー・モーツァルト』によると、モーツァルトは、少年時代から(!)あらゆる賭け事に親しんでいたようです。

高収入にもかかわらず、頻繁に知人に泣きついて借金を繰り返し、結果的にはかなりの借金を残している。しかし、本業はそこまでパッとはしない。そんなモーツァルトの謎は、「彼がギャンブル中毒だったのでは」という推論でしか解けない気がするのです。一時的には大勝ちして多額の現金を手に入れているのに、またハデに賭け、大負けしてすべて失う。借金してギャンブルをする生活を続け、そのまま死んでしまったわけですね。

20代の人気全盛期に経験した豪華な生活を、低迷期を迎えた30代でも忘れられず、「本業がダメならギャンブルで稼ごう」と思ってしまったのかもしれませんが。

もともとモーツァルトには、ギャンブルに耽溺する素質がありました。プロの音楽家としても、モーツァルトは一瞬で大金を稼ぐ働き方に強い愛着があったことが知られています。

現代人の感覚からするとモーツァルトは作曲家ですが、彼は即興演奏が得意なピアニストとしても活躍していました。生前の彼は、机に座り五線譜に音符をチマチマと記していくより、ピアノの鍵盤を10本の指で縦横無尽に奏で、満員の聴衆から拍手喝采を浴びることを好んだそうです。彼が最盛期に主催したコンサートでは、一晩で 数百万円相当 も稼げました。生粋のギャンブラー気質だったのかもしれませんね。

35歳で早すぎる死を迎えたモーツァルトには、「実は殺害された」という物騒な説が19世紀頃から囁かれ続けています。しかし、モーツァルトを貧困に追い込み、早死にさせてしまった“真犯人”、それは彼のギャンブル癖だった……筆者はそう考えています。

バクチが止まらないドストエフスキー

19世紀ロシアを代表する文豪、 フョードル・ドストエフスキー 。1821年、モスクワの軍医の家庭に生まれた彼は、軍人を目指し1843年に工兵学校を卒業しています。階級は少尉でしたが、配属先は工兵隊製図局でした。

この頃、すでにドストエフスキーの父は他界しており、亡父から土地を相続した妹ワルワーラとその夫カレーピンから、1年あたり1000ルーブルの現金が送られていました。当時の1ルーブルは現代日本円で1000円相当なので、 100万円 ほどになりますね。

この土地収入と製図局の給料を合計すれば、おおよそ5000ルーブル(= 500万円 )の収入が当時のドストエフスキーにはありました。しかし、ドストエフスキーの生涯にわたる病である浪費癖とバクチ癖がすでに彼を悩ませており、なんと8000ルーブル(= 800万円 )の借金までありました。

それにもかかわらず、「工兵隊製図局の勤めがイヤ」という理由でドストエフスキーはわずか1年で退職を敢行。「 さて、さしあたり何をするか、それが問題です 」などと兄にノンキな手紙を送ったのち、具体的な成功の目論見がないまま作家を目指すことになったのです。

その後は大変でした。ロシア皇帝への反逆罪で処刑されそうになったり、彼を愛してもいない未亡人に入れあげて辛酸をなめたり。小説家として頭角を現すものの、少しお金が入れば浪費とバクチ、家計は常に火の車です。おまけに好きになった女性からはいつも冷たく振られ、金も愛もない人生を過ごしていたドストエフスキーは、悪徳出版業者ステロフスキーの手口にかかります。「 当座の金は貸すが、一定期間で2本の長編小説を仕上げられない限り、作品の著作権はすべて没収するし、違約金も支払え 」という驚愕の悪条件での執筆を余儀なくされたのでした。

アンナとの出会い

この時、なんとか書きあげた1本目が『罪と罰』。セールスも振るいましたが、ドストエフスキーは2本目の『賭博者』の執筆に行き詰まりました。

違約金発生期限まであとわずかという時、20歳の女学生 アンナ・グリゴーリエヴナ をアルバイトに雇います。彼女の速記に助けられ、なんとか原稿は完成して事なきを得られました。ドストエフスキーは当時45歳。アンナとは25歳も年齢差があり、彼女の家族から猛反対を受けつつも二人は結婚にまでこぎつけます。

しかし、さすがは「喉元過ぎれば熱さを忘れる」タイプのドストエフスキー。新妻アンナとドイツ旅行をする中でも、カジノを見つければ入り浸り、1週間で有り金すべてをスッてしまってもなお手が止まらず、荷物を質入れしてまで賭け続けます。

「往々にして夫は自制がきかず、質に入れて得たばかりの金をすっかり負けてしまうことがあった」とアンナが語る一方、完全破産の一歩手前でドストエフスキーが4300ターラーの金貨が入った袋を持ち帰ってきたこともありました。19世紀の1ターラーは現代日本の5000~1万円ですから、少なく見積もっても 2000万円以上 の大勝ちです。しかし、その金貨もやがて使い切ってしまいました。

アンナいわく、賭け事に狂った状態のドストエフスキーを止める術はないそうです。本人が疲れ果て満足するまで、ただ待つことしかできませんでした。よく離婚しなかったものです。ドストエフスキーの小説には悲惨な境遇の主人公を支える献身的な女性が登場しがちですが、まさにアンナは彼の理想だったといえるでしょう。

著者:堀江 宏樹

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