「スーパースターになる選手が『鈴木』では面白くない」目利きの打撃コーチ、元近鉄の新井宏昌さん  プロ野球のレジェンド「名球会」連続インタビュー(8)

 プロ野球のレジェンドに、現役時代やその後の活動を語ってもらう連続インタビュー「名球会よもやま話」。第8回は職人技で2038安打を積み重ね、個々の能力を見抜く目利きの打撃コーチとしても球界に尽くした新井宏昌さん。この人の発案からオリックスの有望新人は「イチロー」の名で世に広まった。(共同通信=栗林英一郎)

オリックス打撃コーチの新井宏昌さん(右)はシーズン最多安打記録を塗り替えたイチローを祝福=1994年9月、藤井寺

 ▽パンチ佐藤と2人で売り出した

 自分が現役時代にやってきたこと、教えられたことを伝える役目は、いつかやってみたいというのはありました。1992年に引退する時、近鉄球団から「希望するなら翌年のコーチのポジションをあげます」と言われたんです。選手を終わってすぐに、同僚だった人を指導するのもどうかと考え、1993年は解説の仕事をさせてもらいました。

 93年の日本シリーズの取材で行った西武球場に仰木彬さんも解説者でお見えでした。「来年オリックスの監督になるので、一緒にやるぞ」と誘われ、94年にコーチになりました。私は近鉄時代、監督だった仰木さんに外国人選手のビデオを見せられ「感想を聞かせて」と、よく頼まれました。人の打撃を見て評価する役割を与えられていたので、現役中から他選手へのアドバイスが思い浮かぶところがありました。

1992年7月のオリックス戦で、近鉄時代の新井宏昌さんは三塁打を放ち、2千安打を達成した。40歳2カ月での到達は当時の史上最年長=藤井寺

 評論家時代にイチローの打撃練習を見た際は大して目につかず、ピンとこなかったんです。ところが94年2月のキャンプで彼を見て、何としなやかで素晴らしいバッティングするのだろうと。足は速い、肩は強い、三拍子そろった選手なわけです。そしてキャンプからオープン戦と、どんどん相手投手を打ち負かしていく。それを見ていると、この選手は間違いなくスーパースターになるという確信を持ちました。

 その頃のパ・リーグは鈴木姓の打者が近鉄(鈴木貴久)にも西武(鈴木健)にもいて、という感じでした。「鈴木」だけでは、どこの選手か分かりません。私自身は目立つことをしないタイプの人間ですが、実力がある他の人は目立たせてあげたいという気持ちがありました。オリックスで鈴木一朗を「すずき」と呼ぶ人は誰もいません。みんな「いちろう」と声をかけます。本拠地の場内アナウンスも米国式で、名前が先で後から姓が出てくる「いちろう、すずき」です。そこで、プロ野球の中で有名になる選手だから、ただの「鈴木」では面白くないので「イチロー」の登録名でいったらどうですかと仰木監督に提案したのです。

 特に仰木さんは“パ・リーグ広報担当”を自負されていました。とにかくセ・リーグより目立たなきゃ、負けていられないという気持ちのとても強い方でした。「イチロー」の案に、すぐ賛成されたわけではないんです。ご両親に了解を得ることをされたみたいですね。カタカナの登録名も今までないことですから、浮いてしまってもどうかと仰木さんも心配されたんだと思います。

 そこで、パンチ佐藤と2人で売り出すことになりました。誰も佐藤和弘を「さとう」と呼ばず「パンチ」と呼ぶので。一緒にすれば(注目が)分散されてプレッシャーもかからないのでは、という“親心”で付け加えられたパンチですね。

 ▽イチローへの日頃の技術指導は二つだけ

 ある試合で、勝ちが決まって最後の打席も立つ必要がないし、死球を当てられてもかなわないから、イチローに交代するかどうか聞いてこいと仰木監督に言われたことがありました。私が尋ねると、イチローは「いいえ、いきます、いきます。打ちにいきます」って言ってヒットを打つんです。これだけ打席に立つことが好きで、とにかく相手投手に勝ちたいという気持ちの強い打者は今まで見たことがありません。私が想像する以上の「世界のイチロー」になってしまうのですけれど、そういう選手になるべくしてなったのかなと思います。

 イチローに対して日頃、打撃の技術的なことを指導したのは、右腕の使い方の意識と右足のステップ。それ以外は何も言わなくても彼は勝手に進歩しました。

 右腕の意識とは、こねてしまったり、逆に腕が伸びすぎたりしないようにすることです。バットの芯を球にぶつけていく感覚を身に付けてほしいのですが、言葉で表すのは難しいので、バットを(左右反対の)逆手に持ってスイングさせます。右の肘が前へあまり出ていかず、バットの芯が動いてくるのがよく分かります。右投げ左打ちには、そういう練習が必要な人が多いです。 また、イチローは右足をステップした時に、どうしても投手寄りに軸が動くのです。ですから、動きっぱなしにしないで、ステップしたところで踏ん張って振るということだけ指導した記憶があります。

 ▽「上からたたけ」の正反対の動きを取り入れたら3割打てた

 ダイエー(現ソフトバンク)との縁ですが、王貞治監督が神戸にオリックス戦で来られていて、神戸市内のホテルから私の自宅に電話がかかってきました。そのホテルまで行き、手伝ってほしいと言われたのです。バントやバスター、エンドランとか細かな打撃技術を教えることを手伝ってもらえないかというお話でした。王さんに声をかけられたことが光栄で、余計なことも考えずに、よろしくお願いしますと返事をしました。

 私が指導したのは柴原洋、村松有人、川崎宗則らです。村松は足の速い選手で、いろんな指導者に「上からたたいてゴロを打て」と言われていました。でも、上からたたく動きではゴロはなかなか打てません。逆にこすってポップフライになります。そこで正反対のことを指導しました。「アッパースイングのつもりで振ってごらん。それでようやくレベル(水平)だよ」と。常にややアッパー気味のスイングをティー打撃からさせるようにしました。自然にレベルスイングになり、そこから続けて3割を打つようになりました。

 川崎はイチローの信奉者でもあったので、同じ型のバットを使っていました。イチローは右手の小指と薬指をグリップエンドに引っかけて打ちます。あそこを持たないと、あのバットのバランスは出ないんです。ところが川崎は同じバットを、グリップを余して持っていた。全然バランスが合わなくて球が飛ばないのです。グリップを余して打つのであれば、イチロー型のバットはやめた方が良いと指導したこともありました。

 ▽敵のチームとして見ていた経験が生きた広島時代

 

宮崎・日南キャンプで指導する広島打撃コーチ時代の新井宏昌さん=2013年2月

私がオリックスの2軍監督をしていた時、広島の松田元オーナーが私の指導を見られていた。「カープの選手に一度やってみてくれないか」と要請を受け、2013年から3年間お世話になりました。これはすごく新鮮で、いい体験でした。 私はウエスタンの試合で敵側のチームとしてカープの若い選手を目の当たりにしていたので、やりやすかった。この選手はあそこに変化をつけてあげたら、もっと良くなるんじゃないかという印象を持っていたわけですね。

 丸佳浩は名前のようにバットのヘッドが円を描くようなスイングをしていました。円を描くんじゃなく直線的なスイングにさせ、アウトコースの球を逆方向へ低く強く打ち返す練習をいっぱい取り入れました。彼は今では逆方向へホームランが出るようになって、本当に良い打者になりました。

 会沢翼は、いかにも真っすぐがきたら遠くへ飛ばしますよという動きで振ってくるけれど、2軍の投手の真っすぐでもファウルになっていました。速球を打つ動きなのに変化球が最も合うんです。そういうのがオリックス時代に敵として分かっていました。タイミングが少し遅いので、練習で修正をして打てる捕手になりました。

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南海に入団した頃の新井宏昌さん=1975年2月

新井 宏昌氏(あらい・ひろまさ)大阪・PL学園高―法大から1975年にドラフト2位で南海(現ソフトバンク)入団。1986年に近鉄へ移り、1987年に首位打者。1992年7月に当時史上最年長の40歳2カ月で通算2千安打を達成し、同年限りで引退。オリックス、ソフトバンク、広島で打撃コーチを務め、イチローや丸佳浩らを育てた。1952年4月26日生まれの70歳。大阪府出身。

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