58億円『ひまわり』などを残したゴッホ、生前に1枚だけ売れた絵の値段は?

偉業を成し遂げたあの人はいくら稼いでいたのか−−気になる方も多いのではないでしょうか?

そこで、歴史エッセイスト・堀江宏樹( @horiehiroki )氏の著書『偉人の年収』(イースト・プレス)より、一部を抜粋・編集してゴッホ、岩崎弥太郎、松下村塾にまつわるお金の話を紹介します。


不人気画家ゴッホの、唯一売れた絵の値段

「生前に売れた絵は1枚だけ、多くても数枚程度」という不人気画家だった ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ 。生前には買い手がつかなかった=“市場価値ゼロ”だった『ひまわり』に、約100年後の日本で 58億円 もの値がつくなど、驚愕の価格上昇記録の持ち主です。

ゴッホが職業画家として活動したのは晩年のわずか10年だけ。しかし短い活動期間の中で、油彩画を約900点、デッサンを約1100点と、2000点あまりもの作品を残しました。

職業画家になる前のゴッホには、イギリスのロンドンで画商として、オランダのドルレヒトで書店員として勤務した実績がありました。しかし基本的に薄給で、雇い主と決裂してクビになることを繰り返しています。伝道者としてベルギーの炭鉱街・ボリナージュに赴いた時は、薄給どころか無給でした。それでも雇い主からクビにされてしまったのですが……。

ボリナージュにおいて、ゴッホは必死に働く鉱夫たちの姿に心打たれ、夜の空き時間に何枚ものデッサンを残します。しかしこれらは翌朝、ゴッホの下宿先のドニ夫人が火を起こすのに使ってしまったそうです。「まとめて残しておけば何百万円になったのに」と思ってしまいますが、当時の人々の目には、独特すぎるゴッホの作風は下手な落書きのようにしか見えなかったのでした。

唯一売れた『赤いブドウ畑』

では、どんなゴッホの絵ならば“売れた”のでしょうか? 1882年、アムステルダムで画商をしていた叔父のコル・ゴッホが、1枚あたり2・5ギルダー(1ギルダー=5000円とすると、 1万2500円 )の値段で合計15枚の風景画のデッサンを買ってくれた記録があります。単純計算で 約19万円 の収入になりました。「ゴッホの生前に売れた絵が1枚」などといえるのは、通常ならデッサンの何倍、何十倍もの値段で取引される油彩画の話のようです。

「ゴッホの生前に1枚だけ売れた絵」とされるのは、1888年11月に南仏アルルで描かれた『赤いブドウ畑』という作品です。これをオランダの陶器メーカー創業家出身の女性が、1890年に400フランで買った記録があります。19世紀末の1フランは現代の約1000円。 約4万円 で売れたことになり、油彩画としては驚きのお手頃価格でした。

これらのデータから換算すると、10年間の画業での収入は合計しても 約23万円 。単純計算すると、ゴッホの画家としての平均年収は2万3000円弱となるのでした。

『赤いブドウ畑』

ゴッホに尽くした弟テオ

ゴッホが画商の弟テオから物心ともに支援されていたのは有名な事実ですが、それなしではとても生活できない低収入です。それでも「炎の画家」の異名通り、1日の大半を創作に費やす生活を彼は続けました。

1885年5月、テオに宛てた手紙の中で、ゴッホはこんなことを言っています。

「昨日、絵の具で描いた習作をたくさん郵送した。完成した絵は、Ⅴ1の印がついた木箱に入れて、今日、つまり水曜日の発送で送料元払いで送るよ」

「元払い」と書いているあたりに、弟から資金援助をしてもらっているゴッホの肩身の狭さや、律儀な人柄がうかがえる気がします。ちなみにこの「完成した絵」こそ、ゴッホ初期の名作『馬鈴薯を食べる人々』でした。ある時期からゴッホの絵は、資金援助への返礼として、テオのもとにまとめて送られるようになっていたのです。

まるで心身を燃やし尽くすような激しい創作活動の末にゴッホは心を病み、1890年、ピストルで自殺未遂をします。そして、その怪我が原因で亡くなりました。

ゴッホの死後、美術の評価軸は大きく変化していきました。写実的な絵画以外も評価されるようになり、燃え上がるような内面が反映された彼の作品の人気が高まります。値段も高騰しましたが、それを享受できたのはテオではなく、彼の遺族でした。ゴッホの死から半年後、テオも兄を喪った悲しみの中で亡くなっていたからです。

葬式でも経済を動かした岩崎弥太郎

近代日本のビジネスを牽引した大富豪・ 岩崎弥太郎 は、その死においても豪快でした。

明治18年(1885年)2月7日、まだ50歳の岩崎に死が迫っていました。大名華族の柳沢家から買い取った六義園の別邸で胃ガンの闘病生活を送っていた岩崎ですが、自分の後継者を誰にするかなどの言葉をつぶやくことは一度もありませんでした。

同7日16時、岩崎の呼吸は一時停止し、医師にカンフル注射を打たれてなんとか息を吹き返します。18時、岩崎は母親や姉妹の名を大声で呼びつけると、集まった家族や会社幹部たちの前で「事業の相続者を長男の久弥にする」と告げました。

最後の力を振り絞ったのでしょう、「腹の中が裂けそうだ、もう何も言わん」と沈黙したのち、布団の中から医師団に一礼。右手を高く掲げながら亡くなるドラマティックな死に様を見せつけました。

驚愕の葬儀費用

世間が目を剥いたのは、岩崎の葬儀の豪華さです。13日の葬儀のために雇われた人夫(=アルバイト)の数はなんと 7万人 。当時の富裕層のお葬式で100人程度、多い時でも1000~1500人程度が標準的でしたから、まさに岩崎家がケタ外れの葬儀を行おうとしていることが知れました。また、人夫には警視庁から“借用”した巡査数十名なども含まれていたそうです。

岩崎の葬儀は神式で行われました。明治のセレブリティの葬儀は神式が人気だったのです。祭主は出雲大社宮司にして、議員や東京府知事も歴任した千家尊福男爵で、式には政界の大物やビジネスエリートたち3万人が集いました。反・岩崎、反・三菱の先鋒だった渋沢栄一の姿すら見られ、岩崎弥太郎が“経済の巨人”だったことが肌身に染みてわかる式だったようです。

岩崎は生前、染井村にある公営墓地の敷地を買い占めていました。さらに埋葬用の土地だけでなく、墓を建設するための資材置き場として2000坪も買い増しされ、この土地にはのちに三菱社員専用墓が作られることになりました。

式の当日、駒込の岩崎邸から染井墓地にまで、壮麗な葬列が続いたそうです。染井の岩崎墓所では「埋葬式」が行われ、食事や菓子の大盤振る舞いがありました。

当時の新聞の報道は、会社によって数字がかなり異なります。「東京日日新聞」によると、会葬者に用意された食事は西洋料理・日本料理の立食式で6万人前。「東京横浜新聞」によると日本料理は3万人ぶんのお弁当、外国人の会葬者用には上野の精養軒に300人前の洋食が注文されました。さらにお菓子も6万人ぶんが用意されたそうです。

この菓子は会葬者だけでなく、集まってきた貧しい人々にも配られたようですね。もともと岩崎は、自邸周辺の貧しい人々にとつぜん大金を与えることがありました。葬儀の前、岩崎邸の周りにはひれ伏して最後の施しを待つ人々の姿まであったとか……。

そんな岩崎弥太郎のお葬式の予算は総額1万円。明治期の1円=1万円として考えれば1億円ですが、当時の社会状況においては 10億円 相当だったと見る人もいます。「さすがは岩崎、死してなお自分の葬儀で経済を動かした」などと日本中の噂になりました。

松下村塾の授業料が無料だった理由

吉田松陰 の引力に引き寄せられるかのように、幕末の日本史に名を残す偉人たちが集った伝説の私塾・松下村塾。

高杉晋作や久坂玄瑞をツートップに、師匠思いの入江九一(杉蔵)、努力型の天才だった吉田稔麿の4人が「松下村塾の四天王」でした。ほかにも初代内閣総理大臣にまで出世する伊藤博文、天才的な軍略家だったがゆえに「小ナポレオン」との異名を取り、日本大学の創始者になった山田顕義、さらには日露戦争を勝利に導き「軍神」と呼ばれた乃木希典なども学んでいました。

弁当も無料だった松下村塾

松陰が主宰した松下村塾は、現代人のわれわれが考える学校のイメージをすべて裏切るような独創的な場所だったことが知られています。

授業料は 無料 。それどころか、弁当を持ってこられない塾生がいたら、塾側から食事も無料で出されたといいます。それゆえ身分を問わず、さまざまな塾生が数多く集まりました。

当初、塾があったのは松陰の実家・杉家の座敷です。松陰は幼い頃、ここから吉田家へ養子に出されました。杉家は極貧です。藩からの固定給はなく、時々与えられる仕事に応じた薄給しかもらえない、まるで現代の派遣社員のような雇われ方をしていました。

運よく仕事があったところで、報酬は年額たった26石。幕末の1両=1万円とする通常のレート計算では年収26万円、労賃レートにより1両=10万円で計算しても年収260万円にしかならず、家族数が多い杉家の台所事情は厳しいものでした。よって塾生に提供する食事も、おにぎりと漬物だけで精一杯だったのです。

それでも授業料無料、食費まで無料を貫く私塾・松下村塾の運営姿勢は、「 目上の者は目下の者の言葉に常に耳を貸さねばならない 」という松陰の哲学が反映されたものです。貧しい者にも学ぶ機会を設けるのが自分の仕事である、と彼は考えていたようですね。

授業もかなり独創的でした。塾生たちにはすでに仕事をしている者も多かったので、くるのも帰るのも自由で、人が集まってきたら深夜早朝、時間を問わずに授業が始まるのが通例でした。時には塾生全員で山登りや水泳に行き、武芸の授業もありました。

松陰がとくに力を入れて教授した科目は地理と歴史だったそうです。彼は話がとても上手かったので、塾生は増える一方で、安政5年(1858年)には杉家の敷地内に離れの建物が増築されるほどになります。

青春の終わり

ところが、松下村塾が続いたのは約2年と少しだけの間だけでした。熱心な攘夷派だった松陰が「日米修好通商条約」の調印を行った老中の暗殺計画を進め、それを自ら長州藩に訴え出たことがきっかけで、彼の身は獄に繋がれたからです。

お騒がせタイプの天才だった松陰。彼が入獄するのはこれで2回目でしたが、幕府の要人暗殺計画を企てた罪は見逃されうるものではありませんでした。江戸まで引き立てられたあげく、形だけの審議を受けた末に、松陰は斬首刑に処せられてしまったのです。

松陰は獄中から高杉晋作に手紙を書いて「 死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし 」と訴えていました。死ぬにせよ生き続けるにせよ、国家のためにその身を捧げよ。そんな松陰のメッセージを受け取った塾生たちは、テロ活動にも身を投じることになったのです。

松下村塾は悲しい終わりを迎えました。しかし、わずかな期間だけでも塾に顔を出した者たちは、口を揃えるように松下村塾の楽しい思い出を語っています。それは塾での日々が、幕末の若者たちに許された短い青春だったからでしょう。

著者:堀江 宏樹

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