<書評>『詩集 仏桑華(アカバナ)の涙』 命への優しいまなざし

 本作に収録されている詩の多くは、サンゴの海や星々の光といった豊かな自然や、ささやかな生活の営みが粛々と描かれている。

 「イナゴの鳴き声」は「イナゴは草を食む/ありったけの草を食む」という冒頭から始まる。この詩の中では粛々と行われる食物連鎖が描かれているがそこに残酷さはなく、むしろ子どもに読み聞かせるような平易な言葉でつづられている。

 「やさしく生きるには/いのちの音になるのです/イナゴに食われた/草笛になるのです」。そして、草笛の音に共振するように蘇る記憶の中で「あの頃のイナゴは/存在の青春を煮詰めながら/黒砂糖の鍋の海でひと泳ぎ/甘い鳴き声を発し/楚々と食われた」と続く。

 「あの頃」には次のような注釈がある。

 「1950年代までは各村に黒砂糖を作る小さな製糖工場があった。(中略)子供たちは、黒砂糖が煮詰まるまでの間にイナゴを熱い砂糖水につけて食べた。」

 沸騰した砂糖水にくぐらせたイナゴの「甘い鳴き声」、イナゴが草を食むときの「草笛」、いずれも生き物が食べ物に変わる瞬間の「いのちの音」だろう。循環する命に対するかわかみ氏の優しいまなざしがうかがわれる。

 また、「ヒトの顔」では「ヒトの顔は/木の実を食べ/魚をとらえ/鳥や己の影を追いかけ/泣いたり笑ったりを反芻して/ほどよい形態(かたち)になった」と描かれる。「ヒト」とは、「人間」の生物学上の標準和名。はるか昔から続く、ヒトの「食べる」という行為が長い年月をかけ、年輪としてその顔に表れる。そして、後半で「ヒトの顔には/魂のふる里がある/あなたの顔にも/わたしの顔にも/星の数ほど多い/訥々と滅び去った/悠久の生命(いのち)の面影(おもかげ)/が宿っている」と締めくくられる。

 言わずもがな「魂のふる里」とは、「魂の降る里」と「魂の古里」の二つの意味を内包しており、悠久の自然の一部としてのわれわれが生きてきた意味について追及している。

 (元澤一樹・同人「煉瓦」主宰)
 かわかみ・まさと 1952年宮古島市生まれ、医学博士。平良好児賞、山之口貘賞受賞者。主な著書に童謡詩集「みはてぬ夢」、詩集「水のチャンプルー」など多数。

© 株式会社琉球新報社