武村正義追悼(1)毛利元就のような選挙の達人だった武村正義の軌跡(歴史家・評論家 八幡和郎)

新党さきがけの創始者で、細川内閣の官房長官、村山内閣の大蔵大臣をつとめた武村正義さんが亡くなった。88歳だった。

武村氏が注目されたのは、1974年に全野党共闘で滋賀県知事に当選したときだった。三期目の任期満了を前に勇退して自民党の代議士に転身した。当選回数重視の時代だったので限界を感じていたところ、宮沢内閣不信任案可決をめぐる騒動のなかで、新党さきがけを結成し、細川政権の官房長官となった。

だが、小沢一郎との対立が内閣退陣につながり、羽田内閣には加わらず、自民党と社会党と組んで「自社さ」で村山富市内閣を実現させ大蔵大臣となった。しかし、党内で鳩山由紀夫との対立がこじれ、民主党に武村は排除の論理で参加を認められず、2000年の総選挙を前に倒れ、体調不十分のまま落選しそのまま引退した。

その後は、中央政界にはほとんど関わらなかったが、鳩山由紀夫、菅直人、枝野幸男、前原誠司、福山哲郎など新党さきがけの元議員たちの活躍でご意見番的な地位を占めた。滋賀県政界では、いまに至るまで、武村の人脈に属する知事がつづき、永久政権化している。

滋賀県生まれの私にとっては郷土の大先輩であるが、私と武村さんの関係については、来週の第2部で紹介するとして、今回は、「選挙ドットコム」の記事だから、とくに選挙を巡っての武村さんの軌跡を紹介していきたい。

世論調査の積極利用を初出馬から実践

自治省では、採用した新人を地方の都道府県庁に出して、やはり本省から出向している先輩たちに教育させ、そのあと、本省にいちど戻したうえで、県庁に課長として出向させる。

武村は埼玉県庁に出向していたが、突然、辞めて故郷である滋賀県八日市市の市長に名乗りを上げた。このころ、滋賀県知事の野崎欽一郎は圧倒的な強さで再選されたばかりだし、衆議院では宇野宗佑(のちに首相)や山下元利(のちに防衛庁長官)など強い政治家がいた。しかも、頼りになる係累もなかった。

そこで故郷の八日市市長選挙に殴り込みをかけた。武村はのちに、「選挙は善戦は無意味だ。少しでも勝てる可能性があるかだけだし、そう思ったから決断した」といっていた。ここで友人の学者に頼んで簡易だが世論調査をして分析してもらい決断したのが、斬新だったが、結果は、9800対8000だから見事な勝利だった。

注目の若手首長として話題になり、いずれ県選出の政治家がいない清和会(福田派)あたりから総選挙に出馬するのでないかと噂された。湖東地域はもともと西武グループの創業者で衆議院議長をつとめた堤康次郎の地盤だったが、湖西を地盤とする山下元利が後援会を引き継いだので、地域的には空白地帯になっていた。

ところが、田中政権のとき、石油危機の不況で、野崎知事が野心的に進めていた開発事業が不良債権化した。しかもこの背景に特定の業者がいるとされた。

滋賀県は戦国時代から農民自治が盛んで、政府も国会議員も地方議員たちはなにするものぞである。なにしろ、あの野中広務さんから「滋賀県の県会議員ほど自分を馬鹿にしたワル揃いは見たことない」と冗談めかしていわれたほどだ。

この県議たちの強さは歴代の知事にとって頭痛の種だった。現職知事は滅多に落選しないものだが、これまでに4人も落選させられているほどだ。だから野崎知事も苦労したし、それに対抗するために力を借りた人たちに逆に足を引っ張られた。

田中角栄を倒したばかりの野党勢力はチャンスとみて統一候補の擁立を模索し、候補として大蔵省や厚生労働省の官僚が噂にのぼり、とくに大蔵省の梅沢節男(のちに公正取引委員会委員長)は父親が社会党の政治家だったし、当時の社会党県書記長だった高橋勉の同級生だった。

武村の名を言う人もいたが、保守色が強すぎると野党では見る人もいた。だが、梅沢には家族の難病という問題があり、武村が浮上し、労働4団体(のちの連合結成につながる)をブリッジに共産から公明まで含めた全野党共闘が成立した。

ところが、ここで野崎県政を支えていた業者が社会党に圧力をかけて第三の候補を出そうとして、県社会党右派が大量除名された。社会党とこの業者は、京都での同和事業などを通じて関係があったと言われる。

武村は慎重に勝てる可能性があるか分析し、おそらく四割くらいはいけるとみて決断した。現職はなお強いとみられたが、選挙戦が始まると、自民党の山下、宇野両代議士も野崎支援に熱が入らなかったし、西武グループの堤兄弟は武村寄りと噂された。野崎が健康を害していることも不利に働いた一方、武村の挑戦は全国的な注目を浴びて盛り上がり、結果は、一騎打ちで得票率は50.8%。2000票足らずの劇的な勝利だった。

知事に就任するや大胆な財政再建策を進め、琵琶湖の水質汚染を防ぐため合成洗剤の使用・販売を禁止する条例(通称・びわ湖条例)を制定した。夏休みに閉庁するなどが話題になった。

後援会づくりは、草花の会という女性組織や市民団体を新しいタイプの支援者とするとともに、県議会では自民党の県議を一本釣りで親武村グループを形成させた。

前職の野崎知事が、内務官僚出身で県に出向してそのまま移籍した経歴から、アンチ霞ヶ関で、商工労働部長が出向者の最高位だったのを、まずは総務部長、ついで副知事をはじめ、多くのポストに各省庁から俊英を集めて配した。

こうして盤石の体制を固めて、2選目と3選目は無投票だった。2期連続の無投票当選はいまもほかに例がない。

代議士に転じるも当選回数重視の壁

そして、3期目が終わりに近づくと、衆議院への転進が噂されたが、問題は知事の後任だった。ここで武村は、県内の複数の市長などに支援を臭わせつつ競わせ、潰し合いをさせて、県庁生え抜きから副知事になっていた稲葉稔を共産党を除く保革共同候補として擁立し、事実上の院政を敷く体制を構築した。

野党、労働団体、市民グループからなるいわば武村マフィアにとっては、武村が自民党から出馬するのは裏切りだったが、「三河以来のみなさんとのつながりは不変だ」という殺し文句と、県政においては与党の中核として留まることで満足した。

1986年の総選挙では、12.5万票でトップ当選して国会へ登場した。派閥は清和会に属した。ちょうど中曽根内閣末期で安倍晋太郎が後継候補の1人だった頃だ。

国会では当選回数のハンディを克服するために派手な活動で話題づくりに励み、自主的な資産公開はとくに注目を浴びたのだが、その内容は、ほとんどが歯科医師からの妻からの贈与とか借入金だった。年上の夫人と学生結婚し、家族の生活も政治資金も頼っていたのである。

竹下首相の辞任のときには、談合で決めるのに反対して若手議員を糾合して活躍したが、なんと竹下登は同じ滋賀全県区で武村のライバルだった宇野宗佑を指名した。その夜、私は「朝まで生テレビ」のスタジオで武村と一緒だったのだが、そこにやはり滋賀県出身の田原総一朗がやってきて、「宇野宗佑さんになりそうじゃない。滋賀県初の総理ですね」と話しかけてきたが、そのときの、武村さんの口惜しそうな顔は忘れられない。

その翌年、1990年の総選挙では、総理を短期で辞めさせられた宇野宗佑が同情票でトップ当選し、武村は3位に沈んだ。また、この年に武村は金丸訪朝団の事務局長として北朝鮮を訪問して、自民党の当選回数重視の枠を毀す行動へ準備万端だった。

そこに訪れたのが、宮沢内閣末期における不信任騒動だった。このとき、小沢一郎は不信任案に賛成したが、離党するつもりはなかったといわれる。しかし、武村は不信任案に反対したうえで離党し、新党さきがけを結成したので、小沢も離党せざるを得なかった。総選挙では、13議席(鳩山由紀夫なども参加。菅直人は翌年参加)を獲得して細川護熙の日本新党との連携を模索した。

それをみた小沢一郎は、細川ないし武村の首相就任を提案し、細川が首相、武村が官房長官に就任した。この経緯から、武村としては細川と対等と意識し、副総理的な態度だったが、これを嫌った小沢一郎は与党主導の政治体制の構築をめざしたので対立し、この結果、細川内閣は瓦解、新党さきがけは羽田内閣にいったんは閣外協力したが、やがて、自社さ連立の村山内閣の成立の主導権をとり蔵相に就任した。

しかし、党内では政治資金を借り入れへの保証などの形で実質提供していたといわれる鳩山由紀夫の力が強まり、その強い要請で、現職閣僚でありながらフランス領タヒチへでかけて核実験反対デモに参加して顰蹙を買った。

また、武村は社会党との合同に傾いたが、鳩山は民主党の結成に向かった。この背景としては、当時、鳩山邦夫が新進党におり、由紀夫と兄弟で別の党にいることを嫌がった鳩山兄弟の母である安子の気持ちを踏まえたものと噂され、「鳩山兄弟党」としての性格をもっていた。

この党は目新しさと鳩山家の財力が魅力で、社会党の議員の大部分や菅直人らも参加したが、鳩山邦夫は自社さ政権の色を嫌い、村山富市と武村の排除を要請し、いわゆる「排除の論理」が貫徹された。

鳩山ブランドと資金力は、政治資金規正法の制定や公共事業の談合規制で集金が難しくなったなかで、絶大で、日本の政治を壟断し、いまもそれを狙う人が多く、鳩山由紀夫の息子の動向もその意味で目が離せないのだが、大富豪が自分の金を使うことをもっと規制しないと政治を大きくゆがめてしまう。

滋賀県では48年も武村マフィアが県政を支配

この結果、橋本内閣のもとで行われた1996年の総選挙(はじめての小選挙区比例代表制)では、武村自身は当選したものの、新党さきがけ2議席となり社民党も惨敗して15議席となった。

このときに、武村は滋賀2区から出馬したが、自民党の推薦を拒否したので、自民党は対立候補として警察官僚の小西哲を擁立した。しかし、応援に来た野中広務が、「ここに来るについては武村正義さんにことわってから来た」というなど、熱の入らない運動で、武村が11万票足らず、小西が8万票足らずで武村の楽勝だったが、小西も予想以上の善戦で地歩を築いた。

ところが、その4年後の総選挙を前に、武村は心筋梗塞の手術後、腹部大動脈瘤破裂で倒れ、その年の総選挙には無所属で立候補したが小西に敗れた。このとき、野中は「4年前には小西君を十分に応援できなかった。こんどはそのお詫びをしなければならない」と陣頭指揮をとり、武村を追い詰めた。

4年前に武村が自民党の応援を受けていたら、小西の立候補はなく、2000年の選挙で、武村が自民党で立っても、無所属のままでも負けることはなかっただろう。なにしろ、この選挙区は、大都市部でないので、武村の熱心な支持者のほとんどは、自民党系の人たちだから、反自民をはっきりされてしまうと距離をとらざるを得ない人が多かった。

あるいは、小選挙区になったときに、滋賀2区でなく、大津市を含む滋賀1区を選んでいたら、運命は違っていたのかもしれない。

武村はその後も再起したい気持ちはあったが、本人の言によれば、「医者から興奮するようなことだけはするなと言われた。選挙は何よりもだめらしい」といって政界からは引退し、全国的には、テレビ番組「時事放談」のご意見番として知られた。

また、菅直人などとの友好関係は続いた。とくに、菅直人と伸子夫人と一緒に呑んで、二人で菅に苦言を叱咤激励したといった話もよく聞いた。

一方、滋賀県では、自民党県議主導の県政に戻るのだけは、阻止したいとこだわっていた。稲葉は武村の継承者として送り込まれたが、なかなかの人物で自民党ともよい関係だった。

3期をつとめたあとの1998年の知事選挙では、自薦他薦が入り乱れて大混戦になったが、武村は自分にもっとも近く自民党が乗りにくい国松善治を立てて、自民党を排除した県政にし、その3ヶ月後の参議院選挙で新党さきがけの候補当選につなげようとした。ところが、自民党がそれを逆手にとって国松に乗ったので、武村としては、痛し痒しで、参議院議員選挙でも敗北し、武村マフィアは県政中枢にとどまったが、自民党も排除できなかった。

その国松の3選目に、新幹線駅建設反対をスローガンに出たのが、武村知事時代に県の琵琶湖研究所職員となり、その後、大学教授に転身した嘉田由紀子で、武村は好意的に受け止めたが応援はしなかった。

その当選後には、自民党は一貫して野党として行動し、それに対して民主党は与党化したので、嘉田県政は武村にとって満足すべきものになった。しかし、嘉田は参戦出馬を断念し、その円滑な引退を武村に相談したので、武村は三日月大造代議士の後継者としての選定にかかわっていた。

そのころ、対立候補の小鑓隆司(現参議院議員)と三日月の品定めを議論したことがあるが、武村は小鑓を好意的に評価しつつも、自民党主導の知事は県政を歪めるから嫌だといい、三日月の応援にフル回転した。

ただ、その後は、自民党があっさり三日月与党になってしまったのには当てが外れて不満そうだったが、なにはとまれ、武村マフィアは、1974年からなんと半世紀ものあいだ県政の中核にあるのだから、立派の一語に尽きる。

総括していえば、武村さんは選挙と政局の達人として戦国武将でいえば、「策多きが勝つ」といった毛利元就のようだった。それは見事なものだったが、見識ある政治家としての長所を不完全燃焼にした原因だったようにも思うことがある。そのあたりを来週は、論じたいと思う。

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