武村正義追悼(2)ドイツ社会民主党の理念と東洋的な牧民思想(歴史家・評論家 八幡和郎)

武村正義追悼(1)毛利元就のような選挙の達人だった武村正義の軌跡」では、武村さんが政界にデビューした1971年の八日市市長選挙から、落選し議席を失って引退の契機となった2000年の総選挙まで約30年の政治生活を、武村氏がなにより情熱を燃やした選挙というものを通じて明らかにした。

二回シリーズの後編であるこの記事では、武村氏の政治思想であるとか、業績、人柄といったものを明らかにしたいと思う。

金丸訪朝団は安倍晋太郎の指示で事務局長に

保守系の人が好きなお話に、武村氏は北朝鮮とつながっていたからアメリカ政府から忌避され、細川首相や闇将軍だった小沢一郎氏に排除されたという話がある。また、隠れ共産党だとかいう人もいる。

たしかに、北朝鮮を何度も訪問している。知事時代に訪朝して異例なことに金日成主席と単独会談したが、当時は政治家、とくに関西のそれは、朝鮮総連系の人々と密接な交流があるのが普通だったので、武村氏も例外でなかったというだけだし、金日成は訪朝した日本人について部下から報告があって面白そうだと思ったらけっこう気軽にあっていた。

1990年の金丸訪朝団の事務局長(石井一が事務総長)をつとめたが、もともと、この訪朝団は安倍晋太郎が団長として行きたいとしたものだが、病気の進行で断念したもので、金丸氏は代理だった武村氏はいっていた。そして、知事時代に金日成に会ったことがある武村氏が事務局長をするように安倍から頼まれたのだと本人からは聞いた。

このときに、妙高山の招待所から訪朝団が平壌に帰る列車に乗ったのだが、金丸氏が通訳も連れず一人だけ妙高山の招待所に止め置かれ、ほかの団員は列車が出発してからそれに気がついた。金日成との密談ののち、金丸は、日本政府が受け入れがたい「戦後補償」(南北分断に伴う責任が日本にもあると認めることを意味し到底受け入れられないものだ)という約束をして、それを訪朝団に追認させた。ところが、外務省としては到底、交渉の基礎とすることができなくなり、かえって、日朝交渉を遅らせてしまったのだが、武村氏は金丸氏を諫めたが力が及ばなかったと主張していた。

たしかに、アメリカ政府の一部から北朝鮮と親しい政治家とみられていたかもしれないが、細川や小沢と決別した後にも、自社さ政権を樹立して大蔵大臣になっているのだから、アメリカ政府の強い圧力があって政界から排除されたなどというお話は、そもそも、つじつまが合わない。

また、八日市高校では民青系の団体に入って、学園紛争の先駆け的なことをしていたが、これは、高校の教師の影響でそうなっただけだ。大学へ入ってとくに熱心に学生運動をしたわけでない。

ドイツ留学でドイツ社民党から学ぶ

あまり武村はイデオロギーについて仕事で関係がある人とは、議論はしなかったようだ。かなり親しかった革新系の理論家や側近といわれた官僚に聞いてもそういう話はしたことないという。だが、私の理解では、後藤田正晴などと同じで、進歩的な色合いをもった内務官僚というのが基調だったと思う。

「牧民思想」という言葉があるが、中国では地方官が人民を慈しんで統治すべきだという考え方があり、その思想は李氏朝鮮を通じて入って江戸時代の日本の為政者の心がけとされ、さらに内務官僚などに引き継がれた。利権や政治家・行政官の贅沢な生活への嫌悪感もそこに含まれる。そうした考え方は、後藤田正晴、奥野誠亮、村田敬次郎、亀井静香などにも共通してみられる。

前回も書いたように武村氏は、知事になってから県庁の改革を進める趣旨もあって、積極的に霞ヶ関から官僚を呼び寄せたし、晩年でも若い官僚と話すのが好きだった。滋賀銀杏会という東京大学の同窓会を組織して会長になり、毎年、総会と県内旅行には必ず顔を出して熱心に若い県庁への霞ヶ関からの出向者とも議論していた。

さらに、それ以上に、武村氏が影響を受けたのは、ドイツ社民党の考え方だと思う。武村は入省直後に配属された愛知県庁の職員として、西ドイツへの留学をして、大学にもいたが、社民党の牙城であるノルド・ウェストファーレン州内務省で研修もしている。

本来は、帰国後に何年か県庁でお礼奉公しなければならないところだったが、当時の知事で戦後の全国の知事のなかで最高のひとりの一人といわれる内務官僚出身の桑原幹根氏は、鷹揚に自治省に復帰することを認めてくれた。

武村氏の地方自治、住民運動、環境主義、財政均衡などの考え方は、西ドイツ社民党のコンテキストで考えれば、体系的に理解できるものだ。

とくに財政均衡についていえば、武村氏が知事になって最初にやったのは、職員の賃下げを含む大胆な財政再建だった。バブル崩壊後の経済再建に不可欠な不良債権処理の最初の道筋をつけたのは、武村蔵相時代にレールが敷かれた住専処理だったし、そのことを非常な誇りとしていた。消費税の3%から5%への引き上げもした。そして、21世紀になってからも、財政再建を強く訴え続け、一律財産税など大胆な提案もしていた。

最近は保守派が何を間違ったのか財政規律に無頓着になっているが、本来は、保守派が財政均衡主義で、革新派が財政赤字に無頓着なものだが、武村氏がおそらく我々の時代の政治家の中でももっとも過激な財政均衡論者であることは内務官僚的発想+西ドイツの影響だと思う。

武村は中央政界に進出するときに、清和会入りしたが、いまでこそ、安倍晋三元首相のもとで積極財政論に転じたが、このころの清和会は、ちょうど福田赳夫が安倍晋太郎に禅譲したばかりのころで財政均衡論の先鋒だったことだ。

ゴビ砂漠旅行に誘われたこと

若いころの留学経験は、とくに、自分で希望していった国の場合には色濃く思想に影響を残すものである。

私はフランス国立行政学院(ENA)に留学し、南西フランスのジェルス県庁で県庁研修もしたし、のちに、フランス社会党政権の時期にフランス勤務もしたので、私の思考方法の基礎には色濃くフランス社会党右派の官僚出身政治家のそれがある。現在のマクロン大統領もその系統だから、具体的な政策論はともかく、思考方法としては同じ基礎に立っていると感じ共感している。

武村氏とは、10年ほどのタイムラグはあるが、戦後の西ドイツとフランスで互いが経験した話はよくして、両国の考え方の違いについて議論した。

武村さんは、また、フィクサー的な人物の懐に入っていくのも得意だった。中曽根康弘、細川護熙両首相の指南役として知られる四元義隆氏には、大学時代に迷走して永源寺という臨済宗寺院にいたころからのお付き合いと聞いた。

四元氏は武村氏の愛知県庁での元上司で清和会の先輩でもあった村田敬次郎元通産相も師事していたので、村田氏が武村氏の紹介したと思っていたが、村田氏から、武村さんが若い頃から知っていて自分に紹介したといわれておろどいた。

武村氏は西洋的な知性主義にもう少しなじめないところがあって、東洋思想に根付いた社会を理想としていたが、そこには、安岡正篤的な東洋思想の影響を見て取ることも可能だろう。

滋賀県知事就任早々に問題となった上田金脈事件の処理では、田中角栄や会津小鉄組の高山登久太郎組長と直談判で問題を解決したことを隠していなかった。

地域の問題では、草の根グループの活動を奨励したが、これは、前回も書いたように、伝統的な農民的自治の牙城である強力な「自治会」を基礎としたムラ社会が滋賀県においてあまりにも強くて息苦しい面もあるし、自民党を支える基盤になっている事情を前提に考えねばならないだろう。

戦国時代に蓮如上人らが活躍してそこから多くの大名や武士たちを輩出したり、江戸後期には「天保義民」という一大農民運動を引き起こした栄光の組織だが、一方で、女性や若者などの自由を束縛する仕組みでもある。そこで、それに風穴をあける組織をつくるという意味もあった。

ともかく大食漢で食事のあとの仕上げに、知事時代には、京都北白川の「天下一品」でラーメン二杯などという調子だったらしいが、最晩年もイタリア料理店でワインを呑むのがお好きだった。なぜか、パスタは乾麺のスパゲティでなくてはということなので、手打ちパスタが自慢の店でも事前に交渉して特別に用意してもらっていた。

晩年に力を入れておられた仕事のひとつが、中国の砂漠の緑化である。しばしば、中国にも出かけられ、ゴビ砂漠で星空を見るのを無上の喜びとされていた。私も誘われたのだが、アルタイ山脈のなかの村でインターネットが使えないというので、IT中毒の私には耐えられそうもなかったのでお断りしたのが心残りだ。

ともかく冒険心あふれる人で、徳島文理大学の月例の教授会のあとの懇親会で二次会に行くことも多かったが、なんの紹介もなく飛び込むのが好きなので、有名人なのに大丈夫かと心配したほどだ。そういう冒険心が政治家としての可能性を広げ、また、挫折の原因でもあった。

しかし、全般的にみれば、1990年代に政界再編のきっかけをつくり、また、現在も活躍する多くの政治家を育てられたのであるのは価値あることだが、たとえば、民主党政権のころあたりに、現役であれば、現実にあの政権にかかわったアマチュア政治家たちとはひと味違うしたたかさを発揮していたのでないかと惜しまれる。

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