「村長」日誌から見る戦時下の神奈川・清川村 ノート13冊、当時の村の様子分かる貴重な資料 30日まで展示

展示パネルの前で山本泰一郎さんの日誌を手にする飯塚利行・清川村文化財保護委員長(左)と文化財資料整理員の池田豊彦さん=村生涯学習センターせせらぎ館

 神奈川県議会議員や「煤ケ谷村外一ケ村組合長」などを務めた故・山本泰一郎さんの日誌などを通じて神奈川・清川村と戦争との関わりを紹介する展示「山本泰一郎『事務日誌』に記された清川村・戦争の時代~横須賀市立逸見小学校学童の集団疎開~」が30日まで、清川村生涯学習センターせせらぎ館(同村煤ケ谷)で開かれている。村文化財保護委員の主催で、疎開児童の文章や写真も展示し、戦時下の村の様子を伝えている。

 大正期から太平洋戦争の頃にかけて清川村長に当たる同組合長などを務めた山本さんの日誌はノート13冊(1919年12月~45年10月)に記されている。日米開戦の41年12月8日には、県庁で知事から宣戦布告を伝えられたとして「県民が一致して戦勝に向けて最善の努力邁進(まいしん)されるよう力説された」と記している。

 45年2月16日には村上空に敵艦載機が来襲。1機で向かった日本軍機が撃ち落とされ、パイロットが脱出した様子を記述。展示に携わった村文化財資料整理員の池田豊彦さんは「当時の村がどのように戦争に向き合っていたのかが分かる貴重な資料」と指摘する。

 清川村には44年8月から横須賀市の逸見国民学校(現在の市立逸見小)の3~6年生が学童疎開し、村内の学校や寺の「花蔵院」など6カ所で暮らしていたといい、展示では6年生長谷川光代さんの日記も紹介。45年の元旦には「お雑煮も二はい頂いた。中に入っているお餅も真っ白だ。横須賀に居れば真っ黒なお餅で…何と感謝して良いか分からない」と記されている。

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