観龍寺 〜 幕末の動乱の傷跡を今に残す寺

倉敷美観地区の北側にそびえる小高い丘は、鶴形山(つるがたやま)という山です。

鶴形山の上には阿智神社(あち じんじゃ)という神社、そして観龍寺(かんりゅうじ)というお寺があります。

じつは観龍寺には、日本の歴史が大きく動いた幕末期の動乱の跡が残っているのです。

倉敷でもおきた幕末の動乱に関わるスポット・観龍寺を紹介します。

観龍寺とは

観龍寺は、美観地区の北にそびえる鶴形山の上にあります。

鶴形山を南北に貫く「鶴形山隧道(つるがたやま ずいどう)」の、向かって左側(西側)にある石段が参道です。

観龍寺の山号は「宝寿山(ほうじゅさん)」、宗派は真言宗御室派(しんごんしゅう おむろは)。

大日如来(だいにちにょらい)を本尊として祀っています。

大日如来は、「宇宙の真理そのもの」を表した仏様で、日本の密教のなかで重要な仏様です。

平安時代の寛和元年(985年)、現在の倉敷市北部・西岡の地で観龍寺は開かれました。

室町時代中に、倉敷村(現 美観地区周辺)へ移転しています。

1000年以上の歴史をもつ、倉敷でも有数の古いお寺です。

観龍寺の見どころ

観龍寺は境内が広大です。

そのため、見どころを厳選して紹介します。

なお山門が開いていれば、境内へ自由に入れます。

本堂などの建物の中へは、通常は入れません。

山門と槍の傷跡

まずは、石段を登ったところにある山門(さんもん)。

境内への入口です。

この山門は、江戸時代の明和5年(1768年)に建造された非常に古い建造物です。

また、山門正面の大きな入口の左右に小門があります。

向かって左側の小門の上の鴨居部分が見どころです。

モデル:天羽 りる、撮影:大嵩 竜一

左の小門の鴨居に傷跡があります。

じつは、この傷は歴史的価値のあるものなのです。

江戸時代末期に襲撃部隊が倉敷代官所を襲撃するという事件がありました。

この事件は「倉敷浅尾騒動(くらしき あさお そうどう)」と呼ばれています。

倉敷代官所襲撃のあと、襲撃部隊は観龍寺の境内に立てこもりました。

このときに隊員が槍で山門に傷をつけた跡なのです。

幕末の日本は、倒幕派と佐幕派の争いが起こっていた時代でした。

観龍寺の山門の傷は、当時の争いを生々しく今に伝えています。

倉敷浅尾騒動については後述します

山門前から参道を振り返ると、みごとな眺望を楽しめる

妙見堂

山門をくぐると、すぐ右手に見えるのが妙見堂(みょうけんどう)。

妙見宮(みょうけんぐう)とも呼ばれています。

中には太鼓が奉納されているそうです。

妙見堂の本殿

阿智神社は明治2年より前の時代は、「妙見宮」と呼ばれていました。

そして観龍寺は、妙見宮の別当寺(べっとうじ=神社を管理する寺)だったのです。

しかし明治2年に「神仏分離令」により、妙見宮の御神体などが観龍寺の堂宇(どうう)に移されました。

妙見堂の前には鳥居がある

その後、明治41年に大原孫三郎の父である大原孝四郎が妙見堂を建立し、現在に至ります。

鳥居があるのは、かつて観龍寺が妙見宮を管理していたときの名残といえるでしょう。

大師堂

境内のほぼ中央にあるのが、大師堂(だいしどう)です。

大師堂は、「大師」の号を授かった弘法大師(空海)を祀るお堂。

大師の号は、高尚な僧にしか与えられない尊称でした。

観龍寺では江戸時代に2度の火災の被害がありましたが、現在残っている大師堂は火災後の享和年間(1801〜1804年)に建てられたものです。

本堂

本堂(ほんどう)は、境内の西側、山門からもっとも奥の方にあります。

観龍寺の本堂は、江戸時代に2度の火災にあって焼失しました。

現在残っている本堂は、約270年前の寛延2年(1749年)に再建されたもの

そのため観龍寺の本堂は、美観地区に残る建造物のなかでもかなり古い建物です。

本堂には、大日如来が祀られています。

賽銭箱がありますので、賽銭を納めて、しっかりと合掌して拝みましょう。

なお、本堂の中には通常は入れません。

鐘楼

境内の中央南側、ちょうど山門をくぐって左手に見えるのが鐘楼(しょうろう)です。

鐘楼は梵鐘(ぼんしょう)という鐘が置かれた建物で、寺を象徴するもののひとつ。

現在の観龍寺の梵鐘は、昭和末期に改鋳したものです。

鐘楼前・仙掌庵からの眺め

鐘楼の前には仙掌庵(せんしょうあん)という建物があります。

仙掌庵の前は展望台のようになっていて、美観地区の町並が一望できる

倉敷美観地区の見晴らしスポットとして人気で、写真の撮影ポイントのひとつになっています。

境内東側の「鶴形山の鐘楼」

観龍寺の境内からも見える東を見ると、境内のすぐ東の外側に、大きな鐘楼が見えます。

この鐘楼は観龍寺の境内のものではありませんが、「鶴形山の鐘楼」と呼ばれているものです。

鶴形山の鐘楼があるのは、観龍寺の山門の前を東(向かって右)に進んで、すぐの場所となります。

この鐘楼は、江戸時代中期の寛保2年(1742年)に、倉敷村の庄屋・小野氏が建てたもの。

そして、倉敷村や倉敷の町に時間を知らせるために、住民が交代しながら鐘が鳴らされていて、「時の鐘(かね)」と呼ばれていました。

戦時中どこの鐘も供出されたため、当時のものは現存していませんが、現在ある鐘楼は、昭和24年(1949年)に大原総一郎氏が再建し、旧倉敷市へ寄贈したものです。

再鋳にあたり、板画家・棟方志功(むなかた しこう)が梵鐘の図柄をデザインしました。

また、時の鐘をならすのも中断していましたが、昭和52年(1977年)に倉敷ライオンズクラブが自動鐘打ち機を倉敷市に寄贈し、時の鐘が復活しました。

なお、鶴形山の鐘楼の中には入れません。

観龍寺の御朱印

観龍寺の御朱印には、本尊・大日如来の名が大きく書かれている

観龍寺では、御朱印をいただけます。

御朱印をいただくときは、300円の納経料を納めましょう。

なお、状況によっては御朱印をいただけないことがあります。

観龍寺の歴史

最初は現倉敷市の北部にあった

観龍寺は、平安時代前期の寛和元年(985年)に開かれたと伝えられています。

建てられた場所は現在の場所ではなく、窪屋郡(くぼやぐん)の子位庄(こいのしょう)という地域でした。

子位庄は現在の倉敷市北部、西岡(にしおか)地区周辺にあたります。

当時は観龍寺という名前ではなく、宝積院(ほうしゃくいん)という名前で、山号は北斗山(ほくとざん)でした。

このときは、西安寺(さいあんじ)慈照院(じしょういん)というお寺があって、西安寺の末寺(まつじ:大きなお寺の配下となる小寺)だった12のお寺のひとつだったのです。

なお、平安時代に西安寺の末寺だった12のお寺のうち、行願院(ぎょうがんいん、旧 財善院:ざいぜんいん)と龍昌院(りゅうしょういん)の2寺院が、現在も西岡地区に残っています。

ちなみに西安寺は、奈良時代に鑑真(がんじん)が開いたともいわれています。

室町時代の終わりごろに現在地へ移転

室町時代の終わりごろの1500年代前半、宝積院は子位庄から現在の鶴形山の南側に移転しました。

移転した場所は、現在の観龍寺の石段の登り口あたりで、観龍寺の参拝者用駐車場があるところといわれています。

観龍寺の参拝者用駐車場

また観龍寺が倉敷市西岡にあって宝積院と名乗っていた時代に、宝積院の鎮守(守り神)として妙見宮(みょうけんぐう)祀っていました。

妙見とは北斗七星や北極星のこと。
つまり、北斗七星・北極星を寺の守り神として祀っていたのです。

また妙見宮は、現在の阿智神社の前身となる神社になります。

そして宝積院が鶴形山の南へ移ったときに、いっしょに妙見宮も移されました。

その後、文禄3年(1594年)に現在阿智神社がある場所に妙見宮が移されたのです。

このころから妙見宮は宝積院だけでなく、村の住民からも信仰されるようになりました。

江戸時代に観龍寺へ改称

江戸時代初頭の寛永元年(1624年)には、現在地である鶴形山の上に境内を移します。

そして寺の名前を現在の観龍寺に正式に変え、山号は宝寿山になりました

また寛永5年(1638年)、観龍寺は妙見宮の別当寺(べっとうじ:神社を管理するお寺)に定められます。

その後、江戸時代中の延享年間(1744〜1748年)に2度の火災にあってしまい、本堂など伽藍(がらん:寺の境内にある建築物)の多くを焼失してしまいました。

焼失後、江戸時代を通して順次再建されていきます。

現在、観龍寺境内には江戸時代に再建された建造物が多く残っているのです。

江戸時代の観龍寺は、文化・文政年間(1804〜1830年)に教存・教戒という僧が活躍し、名僧といわれました。

その影響で、観龍寺には頼山陽(らいさんよう)や菅茶山(かんちゃざん)といった文化人が訪れています

幕末に倉敷浅尾騒動が発生

幕末になると、日本各地で倒幕派と佐幕派の争いが勃発します。

じつは倉敷の地でも幕末の争いはおこっていました

倒幕派のうち、立石孫一郎(たていし まごいちろう)が率いるおよそ100人の軍勢が、慶応2年(1866年)4月10日朝に倉敷代官所(だいかんじょ:幕府の代官が業務をおこなう役所、現 アイビースクエア)を襲撃。

倉敷代官は不在でしたが、中にいた男女11人を殺傷します。

倉敷は天領(江戸幕府の直轄領)で、幕府から派遣された代官が治めていた重要拠点だったため、倒幕派から狙われたのです。

現在の倉敷アイビースクエアに残る倉敷代官所時代の遺構

倉敷代官所の襲撃後、軍勢は観龍寺に立てこもり休息しました。

このとき、隊員によって山門の鴨居に槍で傷がつけられ、現在も残っているのです。

その後、同日午後には軍勢が観龍寺を出発。

翌々日の4月12日に軍勢は、現在の倉敷市の北側・総社市門田(もんで)にあった浅尾藩(あさおはん)の陣屋(じんや:藩の役所となった屋敷)を焼き討ちしました。

この一連の事件は、倉敷浅尾騒動(くらしき あさお そうどう)と呼ばれています。

明治になって阿智神社と分離

明治時代になると、神社とお寺を明確に分けるために明治2年(1869年)に「神仏分離」がおこなわれました。

そのため観龍寺の管理下にあった妙見宮は、阿智神社として分離・独立

妙見宮の御神体などは観龍寺に移され、のち明治41年(1908年)に境内に妙見堂が建てられました。

昭和時代末期には、梵鐘が改鋳されています。

年表

倉敷の歴史を見守ってきた観龍寺。

住職・村田隆禅(むらた りゅうぜん)さんにインタビューをしました。

住職・村田 隆禅さんへのインタビュー

倉敷の歴史を見守ってきた観龍寺。

住職・村田隆禅(むらた りゅうぜん)さんに話を聞きました。

倉敷八十八ヶ所霊場巡りについて

──村田住職は、「倉敷八十八ヶ所霊場巡り」を再整備したと聞いたが。

村田(敬称略)──

きっかけは、地元に住んでいるあるかたからの相談でした。
昭和50年代前半ごろのことです。

そのかたは教員をされていて、歴史や信仰に関心があり、私に「倉敷八十八ヶ所巡りというのがあって、一度巡ってみたいのでいっしょについて行ってくれないか」と頼まれました。

それで実際にいっしょに巡ってみると、それがひどい状況でして…。

木が倒れていたり、草木で道がなくなっていたり、土砂が崩れていたりして、とても巡れる状態ではありませんでした。

お堂もボロボロな状態のところが多かったですね。

そこでまずは、八十八ヶ所それぞれを整備していくことから始めたんです。

地域のさまざまなかたが協力してくださり、少しずつ整備することができました。

──倉敷八十八ヶ所巡りはいつごろできたもの?

村田──

倉敷八十八ヶ所は、江戸時代中ごろに整備されたといわれています。

倉敷は江戸時代の大部分が江戸幕府の直轄地で、代官所もありました。

江戸幕府は仏教を大変重視していましたので、幕府直轄地であった倉敷は仏教への信仰が非常に篤い地域だったのです。

そんな背景があり、住民の手によって倉敷八十八ヶ所が整備されました。

明治以降も、地元の人たちによって倉敷八十八ヶ所は大切にされています。

しかし昭和に入り、状況が変わります。
太平洋戦争がおこり、信仰どころではなくなったんです。

戦後になると、今度は経済を建てなおすのが最優先。

生活で手いっぱいなので、八十八ヶ所巡りをする余裕などありませんでした。

やがて地元のかたのなかから忘れ去られ、八十八ヶ所は荒れていったのです。

「備中倉敷学」について

──「備中倉敷学」は、どのような講座?

村田──

私は「備中倉敷学」の起ち上げから関わっており、現在も会長をしています。

備中倉敷学は倉敷公民館で、毎月第2木曜日(8月のぞく)の午後2時~3時半に開催している講演会です。

倉敷を中心に備中・備前地域のことについて、多岐にわたるテーマで講演するものです。

見学会や懇親会も開催しています。

備中倉敷学は、平成17年(2005年)10月に第1回を開催しました。

以来、17年にわたり(令和4年現在)定期的に開いています(コロナ禍による中断あり)。

──備中倉敷学を起ち上げた経緯は?

村田──

倉敷だったり備中だったりは、とても歴史ある地域です。

しかし誤った情報、誤った歴史認識が広がっていることも多く、誤解している人も多いんです。

とくに日本史や世界史のような教科書に載るようなものではない、倉敷のような一地域の歴史は修正されずそのままだったりしています

ですから倉敷という場所に住んだり関わったりしているからには、地元の正しい歴史や情報をみんなで共有する必要があると思ったのが始まりです。

最初は、私ともう1人の計2人で計画が始まりました。
やがて同じ思いをもった倉敷に関わる有志が集まってきて起ち上げたのが、備中倉敷学です。

気軽に備中倉敷学へ参加していただき、倉敷の歴史を感じてもらえればうれしいですね。

観龍寺に参拝して倉敷の歴史を体感しよう

観龍寺は鶴形山の上にあるので、境内からの景観をぜひ眺めてみてはいかがでしょうか。

また、天領で代官がいた倉敷の地でも、幕末の動乱は避けては通れませんでした。

その傷跡を残している観龍寺は、倉敷の歴史を語る上で外せないスポットです。

観龍寺に参拝して、倉敷の歴史を感じてみませんか。

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