競泳金メダリストの萩野公介さんがメンタルヘルスの経験を語る理由  「人を蹴落としてでも一番にとは思わない」アスリートとしての争いに苦しんだ自分

インタビューに答える萩野公介さん=9月、東京都内

  世界保健機関(WHO)も協賛する10月10日の「世界メンタルヘルス・デー」を機に、日本でもあらためて「心の健康」に注目が集まった。2016年リオデジャネイロ五輪の競泳男子400メートル個人メドレー金メダリストの萩野公介さんは9月下旬に東京都内で共同通信のインタビューに応じ、自身もメンタルヘルスで悩んだ経験から「メンタルとかっていう言葉に対するハードルがちょっとでも下がると、スポーツ界にとってはプラスなのではないのかなと。人間社会全体にとってもプラスだと思います」と語った。(共同通信=木村督士、中嶋巧)

 ▽求められる自分像

 ―経験を語る理由を教えてください。
 「競技人生においても、メンタルヘルスというものが大きな割合を占めていていろいろ考えるところがありましたし、東京2020オリンピックも出場させていただいて、そういった過程をメディアを通じて、考える機会も増えました。たとえば、2019年に休養した際や昨年のオリンピックの直前もやはり自分自身のメンタルヘルスというものが、切っても切り離せないものなんだな、と強く感じたところです。その体験談を発信することを通して、自分の人生が誰かにいい影響を与えることができるのであれば、すごくうれしいなと感じます。人にはそれぞれ気づくタイミングみたいなものがあると思うので、そのタイミングで僕という存在に出会えてもらえたらいいなと思っています」

 ―世の中に経験を明かすまでの葛藤はありましたか。
 「自分の経験、特に辛いことを話すのは大変なことだと思います。たとえば、取材を受けて別にそんな調子が良くないのに『まあまあです』みたいに意地を張って、萩野公介という人間をつくっていた時もやはりあります。他人から求められる自分像を演じているみたいな。それに比べたら、うそをつかずに『自分の経験はこういう感じでしたよ』って言う方が気持ちとしては楽だなと感じました」

 ―一般社会でもメンタルヘルスを語る難しさはあると思いますが、スポーツ界でそのハードルの高さを感じることはありますか。
 「たとえば他の国が実際に行っている具体策などを聞いたりすると、やっぱりまだまだ日本は遅れているんだなとすごく思います。それは、スポーツ界だけでなく、一般社会も精神に、心に対するアプローチというものが、遅れているのかなというふうには思います。いろいろな活動を通じて、いろいろな人が知っていっている段階だと思うので。ここからどうより良くしていったらいいんだろうね、みたいなことは、みんなで考える必要があるのかもしれないですね」

東京五輪競泳男子200メートル個人メドレー決勝のレースを終え、笑顔の瀬戸大也選手(左)と萩野公介選手=2021年7月、東京アクアティクスセンター

 ▽「なんで自分は生きているんだろう」

 ―苦しかった時期に考えたこと、現状を教えてもらえますか。
 「僕は人は先天的に生まれ持った性格と後天的に人生の経験から得られる部分っていうのがあると思うんですよ。後天的に得られる部分っていうのは、いろんな経験をすることによって人の考えが変わっていったりとか、行動が変わっていったりすると思います。一方で絶対的に変わり得ない部分っていうのが、存在すると思うんです。僕の場合、人を蹴落としてでも一番にとは思わない。ただ、やっぱり思えた方が圧倒的に有利なんですよね。その部分が僕の場合はあまりこの競技には向いていなかったところだと思います。どちらかというと、人に対して矢印が向くというよりも、自分に対してベクトルが向くようなタイプなので。幼い頃から本当に『ああ、なんで自分は生きているんだろう』みたいなことは思ったりしましたし、それは今も続いてます。常に死を考えながら生きるという選択をしているみたいな感じ。ご飯が食べられなかったり、眠れなかったりの症状も全然まだありますし、これからもうまく付き合っていくしかない感じです」

 ―リオ五輪の金メダルで競技に求められる特性と本来の自分との乖離が大きくなったとおっしゃっていました。心の動きを振り返ってください。
 「僕自身の中で速さといったものを追い求めていた水泳は、金メダルを獲得したことによって終わりました。練習でも、他人を蹴落としてでも勝ちたいっていうより、自分がどこまで速くなれるんだろうみたいな気持ちで世界の舞台で誰よりも速く泳ぐことを目標にしていました。しかし、これを達成したことによって『なんで泳いでいるんだろう』とすごく思うようになりました。本来の自分にある根っこの部分みたいなものと、対話していくみたいな時間が増えた感じです」

東京五輪競泳男子200メートル個人メドレー決勝のレースを終え、手を振り引き揚げる萩野公介選手=2021年7月、東京アクアティクスセンター

 ▽休養経て踏み出す勇気

 ―2019年に休養したのはメンタルヘルスの影響もあったとおっしゃっていました。復帰までの経緯を教えてください。
 「基本的に僕は自分自身のことが嫌いなんですが、唯一好きなところは自分で決めたことを、ちゃんとやり通すところなんです。2013年に東京2020オリンピックが決まった段階で出たいと思いましたし、自分の心の中でもそう一度決めました。一度決めたことによって、自分のその唯一の好きな部分まで嫌いになっちゃいけないと思いましたし、やり抜こうっていう気持ちを改めて強く持ったのがその時期です。その時期にちょっと時間を置いて、少しずつ考えて一歩前に踏み出す勇気を蓄えたみたいな感じですかね。ただ休養が明けたからと言って、全てが良くなったわけでもないです。周りの人に叱咤激励されながら、日々を積み重ねていくことができました」

 ▽人間と心は切り離せない

 ―東京五輪ではメンタルヘルスをレガシー(遺産)に挙げる声もありました。大会が社会に与えた意義をどう考えますか。
 「厳しく言うと、症状が出ている時点で、もう手遅れだとは思います。その前にどれだけ、サポートできるかというところだと思うので。トップ選手が症状を訴えることによって、やっと気づくのはあると思いますけど、それはもう本当に時既に遅しだと感じます。それを喜んでいていいのかなっていう気はします。アスリートというか、人間と心というのは、切っても切り離せないもの。スポーツ界だけでなく、社会全体がもっと自分というものを大切にしてあげたらいいのになと思う瞬間もあります。それを僕自身に対しても、すごく思うところです」

記者会見で現役引退を発表し、花束を手に笑顔の競泳男子の萩野公介選手=2021年10月

 ―スポーツ界で変わっていってほしいところはありますか。
 「僕は僕自身の経験でしか物事を語れないので。僕という人生を介して、たとえば『そういう人もいるんだな』とか『萩野さん、そうだったんだな』みたいに、誰かの力になれれば、誰かの支えになることができるのであれば、それはもう僕がこの世に生を受けた意味があるなと思います。やはり内面的幸福みたいなものをみんな大事にした方がいいんじゃないのかとすごく思います」

 ▽人の歴史を研究

 ―大学院ではどんなことを勉強していますか。
 「スポーツ人類学というものを学んでいます。スポーツ人類学の中でも、ライフヒストリーを研究しようと思っていて、文字通りその人の歴史についてです。それぞれの人の、それぞれの人生があって。スポーツ選手にもそれぞれのライフヒストリーがあります。僕はどちらかというと、社会全体を学ぼうとか、人類を学ぼうというよりも、1人の人間に着目したいなと思いました。その人にピンポイントで焦点を当てて学んでいくみたいな。ダイバーシティーという言葉をよく耳にするようになってきているように人々のいろいろな可能性を深掘りして広めていくことが僕の今後の研究になるのかなと思っています」

世界メンタルヘルス・デーの対談に参加した(左端から)田中ウルヴェ京さん、萩野公介さん、大山加奈さんら=9月、東京都内

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 萩野 公介(はぎの・こうすけ)2016年リオデジャネイロ五輪の競泳男子個人メドレーで400メートル金メダル、200メートルは銀。800メートルリレーは銅。12年に初出場したロンドン五輪で400メートル個人メドレー銅メダル。19年の一時休養を挟み、21年東京五輪は200メートル個人メドレーで6位だった。栃木・作新学院高、東洋大出。昨年引退し、今春から日体大大学院に進んだ。28歳。栃木県出身。

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 世界メンタルヘルス・デー 1992年10月10日に世界精神保健連盟がメンタルヘルスについて支持を訴える活動として始めた。現在では世界保健機関(WHO)も協賛。毎年10月10日が正式な国際デー(国際記念日)として認められている。WHOは世界中で認知度を高め、メンタルヘルスのサポートに力を結集させる狙いがあるとしている。

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