【読書亡羊】工作員の手を離れた「情報戦」がアメリカ社会を破壊する ティム・ワイナー『米露諜報秘録』(白水社)、藤原学思『Qを追う―陰謀論集団の正体』(朝日新聞出版) その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする週末書評!

さすがのCIAも参ったトランプ政権

国際社会が度肝を抜かれた米議会突入事件から、間もなく二年がたつ。トランプ前大統領はこのほど、民衆の議会突入をツイッターで煽った責任を問われ、公聴会への召還が申し渡されることになった。

先の大統領選でも「選挙は盗まれた」と述べ、都合の悪いことは「『闇の政府』、ディープステートの仕業だ」と責任転嫁してきたトランプ前大統領。対中強硬姿勢では見るべきところもないではなかったが、アメリカに残していった「負の遺産」はあまりに大きすぎた。

ティム・ワイナー著・村上和久訳『米露諜報秘録1945-2020:冷戦からプーチンの謀略まで』(白水社)を読むと、一層その思いが強くなる。
本書はアメリカとソ連、ソ連崩壊後はアメリカとロシアの熾烈な情報戦やスパイ合戦の実態を、公開文書を元に描き出している。著者のワイナー氏は『CIA秘録』『FBI秘録』をものし、ピューリッツア賞の受賞歴もある凄腕のジャーナリスト。本書では1945年から2020年までの米ソ、米ロの情報戦を丹念に追っている。

読めばわかる通り、戦後のアメリカの政府や情報機関の工作や方針には間違いも勇み足もやりすぎもあった。もちろん、ソ連・ロシアも同様だが、アメリカも共産主義との闘いというお題目を前に、あまりに多くの人を死なせてきた。ソ連崩壊後のロシアを見くびったツケが回ってきた実態もよくわかる。

しかしトランプ前大統領の登場は、これまでのアメリカの失敗とは全く異質なものだった。トランプ自身が、自国の情報機関よりもロシア、プーチンを信頼していたと考えられるからだ。

トランプはアメリカの国家安全保障の構造を弱体化させた。代償各国への特使を国務省から奪い、自分の救いようのない無知と相容れないときには、CIAの報告書を見て見ぬ振りした。そして、生死がかかった問題で国防総省の長たちをあざ笑った。彼はアメリカの優秀な大使たちを「人間のくず」と侮辱し、FBIの捜査官たちを破壊的裏切り者と中傷して、CIA局員たちをナチの突撃隊とけなした。

著者ワイナー氏のトランプ評価はあまりに辛口だが、しかし事実は事実だ。これでは歴戦の猛者であるCIAもFBIも、ロシアと戦うどころではなかっただろう。

ロシアの「成功体験」が招いた今般の失態

『米露諜報秘録』はウクライナ侵攻より前の2020年までの記述にとどまっている。本書執筆時点では、ロシア・プーチンの情報戦がアメリカを席巻し、民主主義への信頼を破壊し、ロシアがアメリカに一矢報い、甚大な被害をもたらしたというのが「最新状況」だった。

だが、それから2年、ロシアによるウクライナ侵攻を知る現在の私たちから見ると、執筆時点とはまた違った読み味が生まれてくる。

例えば、ジョージア、ウクライナで発生したカラー革命。

プーチンにとって、それは、民主主義の支援に見せかけた、アメリカの情報機関がソ連に対して実行する一連の転覆と妨害工作の一部だった。

この二つの革命が、プーチンに与えた対米認識は、今般のウクライナ侵攻にも大きな影響を与えたに違いない。

そして2014年のクリミア侵攻。現地の民兵を装った特殊部隊に現地住民を殺害させる一方、通信回路を切断し、国際世論をも操った。結果、ロシアはクリミアを手にしたが、国際的非難はそれほど大きなものではなかった。日本からは鳩山元総理が、クリミアを訪れ「ロシアによる併合を支持する。対ロ制裁を解除すべき」と述べたほどだった。

だが、ロシアによるウクライナ侵攻の現状を目の当たりにしている2022年の視点からは、ロシアがこの時、あまりに鮮やかに目的を達成した「成功体験」が、かえって今回のウクライナ侵攻を躓かせたのではないかという思いにもかられる。

もはや「暴走族」鳩山氏 クリミア問題で爆走中

ロシア発の偽情報に惑わされる日米の人々

一方で、ソ連時代からのロシアお得意の海外世論工作は、ことウクライナ侵攻に関しては奏功しているとは言い難い。だが、まったく影響力を失ったわけではない。

日本にも「悪いのはアメリカ。ロシアは追い詰められて自衛のためにやっただけ」「アメリカはもっと多くの人間を死に至らしめている」と述べ、さらにはロシア大使館を介してロシアと関係を深めている「有識者」たちもいる。

ウクライナ侵攻後もロシア大使館のツイッターやロシアのメディア「ロシア・トゥデイ」が発信するプロパガンダ情報や、正体不明のアカウントによる「ウクライナこそ残虐な振る舞いを行っている」というような偽情報を、事実と信じこんで、今なお、親ロ的立場を取る人々もわずかながら存在するのだ。

そして、アメリカでの「ロシア発」情報の影響は日本の比ではない。ロシアが2016年のアメリカ大統領選時にアメリカ社会に植え付けた「偽情報」は、アメリカ国内の言論状況を土壌として今も根を張っている。

しかも、その根を育てているのは、必ずしもロシアの意を受けた「ネット工作員」ではなく、多くはアメリカ国民、それも愛国心あふれる共和党支持者たちだ。その模様は朝日新聞記者・藤原学思氏の『Qを追う―陰謀論集団の正体』(朝日新聞出版)に詳しい。

ロシアと世界観が一致したQアノンたち

機密情報にアクセスできる立場にいる、という触れ込みのQが掲示板に書き込むメッセージを解読し、「アメリカ政府は闇の勢力=ディープステートに操られている」という世界観を共有するQの信奉者たち。彼らはQアノンと呼ばれ、トランプを光の勢力の救世主と位置づけ、トランプを今なお支持し続けている。

『Qを追う』はタイトル通り、こうした陰謀論の出処になっているQの正体を追いながら、Qアノンになった人、目が覚めてQから脱した人たちを含め現象そのものも追っている。そしてその誕生と影響における日本への言及も見逃せない。

Q自身とロシアの直接の関係は指摘されていない。だが、ロシアがアメリカ社会の分断に付け込み、自国に有利になる「トランプ大統領誕生」を画策したこと、さらには民主主義への不信感を植え付ける目的と、Qの世界観は結果的に一致してしまったことになる。

アメリカのQアノンの多くは、ロシアが工作として流布した反ワクチンを掲げているし、ロシアのウクライナ侵攻を肯定しているとの指摘もあるほどだ(ただしロシアのQアノンは侵攻に否定的だという)。

工作員以上に自国の破壊に加担する「愛国者」たち

ロシアは、かねて「対米プロパガンダを広げるための最大の装置であり、脅威」とみなし敵視してきたインターネットを利用して、アメリカ社会の分断を深める道具に仕立てあげた。

もともと存在していた分断を刺激されたアメリカ社会は、リベラルと保守がこれまで以上に敵視し合うようになり、アメリカ国民自身が「アメリカのために」との思いで、デマや陰謀論を拡散させていく。

「情報」はロシアのネット工作員の手を離れ、アメリカの一般人たちが自らの認知と社会を破壊に追い込んでいく事態に至っている。工作員の手を離れた情報戦の影響とその行方は、もはや誰にもコントロールできない事態に至りつつあるのではないか。そしてそれは、日本にとっても他人事ではない。

『米露諜報秘録』と『Qを追う』は、その意味で合わせて読むべき2冊と言えるのだ。

梶原麻衣子 | Hanadaプラス

© 株式会社飛鳥新社