東京ヴェルディのバスケス・バイロンに聞いた!「母国チリでの挑戦」「後輩・松木玖生」「日本国籍取得」

今週末、2022シーズンの最終節を迎える明治安田生命J2リーグ。J1への自動昇格やJ3へ降格するクラブは決まったものの、J1参入プレーオフ圏内の争いは続いている。

9位の東京ヴェルディは、残念ながら最終節を前にプレーオフ圏外が確定。しかし6月に就任した城福浩監督のもと、ここに来てリーグ戦5連勝を達成しており、ここ2シーズンの12位を上回る成績を残す可能性は高そうだ。

10月23日(日)の最終節では、3位のファジアーノ岡山をホームの味の素スタジアムに迎える。

そんなヴェルディで現在、スタメンとして出場しているのが22歳のバイロン・バスケス。チリ出身のアタッカーは今季、Jリーグ初挑戦ながら4ゴールを記録している。

Qolyでは少し前になるが、そのバスケスに単独インタビューを実施。青森山田高校から進んだいわきFCや、現在所属する東京ヴェルディ、さらには母国チリでの挑戦、日本国籍取得などについて聞いた。

いろいろなことに気づかされた、母国チリでの挑戦

――お名前の「バスケス・バイロン」と「バイロン・バスケス」、バスケス選手自身はどちらのほうがしっくりきますか?

海外だと名前が先に来るので「バイロン・バスケス」となります。ただ、日本は苗字が先なんで「バスケス・バイロン」になりますよね。

「バスケス・バイロン」でいいと思います。解説の方とかも皆呼んでいますし、「バスケス・バイロン」で。

――チリだと「バイロン」は「ビロン」みたいな発音になるんですか?

スペルはそうですが「バイロン」は変わらないです。

――バスケス選手はいわきFCに所属していた2020年、母国チリのクラブへ移籍しました。母国で挑戦した理由や、ウニベルシダ・カトリカというクラブを選んだ理由をまずはお伺いできますか?

高校を卒業した時から頭にはありました。もともと小さい頃からチリ代表を応援してきました。チリのサッカーを見て、チリ代表を見て、その印象が強かったんです。

日本に来てからもチリが2010年、2014年とワールドカップに出場した時もずっとチリを応援してました。2015、2016年のコパ・アメリカでチリが連覇して、2017年のコンフェデレーションズカップにも出ました。

2019年のコパ・アメリカで日本と対戦した時もチリが4-0で勝ったりとか。日本は若手主体でしたけど、チリが僕の中で絶対的な一番だったんです。応援していました。

そこからなかなか抜け出せなくて、夢を追うため、チリ代表になるため、そしてヨーロッパに行くために…。結構急なんですけど、僕が親に「チリに行きたい」と言って。

本当になんか旅に出た感じですよね。挑戦。チリでは多分誰も僕のこと知らないですし、無名の状態で行って、どれくらいできるか。チリからステップアップしていきたいなと思って行きました。

実は練習参加で決まったんです。それも、たまたまカトリカの練習に参加させてもらえることになって。最初はユースで。

その時はまだ20歳になっておらず、19歳だったんですが、U-20のカテゴリーに入ってプレーしました。そこでも徐々に慣れてきて、評価され、1,2週間くらいでトップに入りそこで契約を勝ち取った感じなんです。

そしてこれからという時に、コロナになって…。チリリーグが半年中止になったんです。そこが全てでしたね、僕にとっては。半年サッカーができないというのは選手としてきついですし、そこでかなりやられました。

それに、環境とかも…。やはり向こうへ行くと、日本と比べてしまって、日本が恋しくなったりとか。環境もそうですし、食生活から全部なんですけど。

やはり日本は本当に恵まれていて、幸せに生きられる国だなと。治安とかも含めてですけど。半年サッカーができなかったことで、そういうことをいろいろ考えました。

サッカーができるようになったのは2020年の8月最後の頃からでした。そこから練習に入ってやっていたんですけど、どうしても日本へ戻りたいな、と。それに、チリの現実というのも目の当たりにして、もう自分の中で“答え”を見つけられた感じでした。

カトリカにはチリのA代表の選手が何人もいるんですよ。それこそコパ・アメリカでチリが連覇した時のメンバーが4,5人くらいいました。アンダー世代の代表選手もたくさんいましたし、アルゼンチン人も、今ラ・リーガにいる選手もいました。

本当にレベルが高い中でしたけど、でも全然できていました。手応えもすごくあって、自分の可能性はもう感じていたんです。ただやはり精神的にもそうですけど、「チリじゃないな」と思い、10月に帰ってきた感じです。

――チリでの思い出というか、印象的に残っている出来事は?

コロナ禍で本当に家にいた時間のほうが長かったので…。

一番の思い出は、本当にもう外出も禁止だったので、家の中で器具とかもない中、何ヶ月も自重だけで身体を鍛えたりとか、下半身の筋トレをしたりとか。

家の前の道路でシャトルランをしたこともありました。車が通るバイパスの真ん中に歩道で、一人でダッシュをしたり、100メートル走をやったり。もうひたすら追い込んでいましたね。

あの半年、サッカーができないにしても、最低でも週5,6回は、自分で筋トレやトレーニング1,2時間くらいを絶対に入れていました。

そこで鍛えたのも思い出ですし、あとは家にいることが多かったので、チリのホットドッグやシュラスコ。体にあまり良くない、スナック系というんですかね?ちょっと油っこいものをたくさん食べたなっていう(笑)。

動くのでそれでも消化しますけど。あとは家族みんなでご飯を食べたりとか、そういうことですかね、思い出は。

――「鍛える」というワードが出てきましたけど、高校から入ったいわきFCはまさにその言葉がピッタリのクラブでした。現状Jリーグでプレーしていても「いわきFCで得たもの」がすごく生きてるとか、そのあたりで感じるところはありますか?

そうですね。本当にそれこそベースの、いわきFCに入った当時も自分の中で「いわきで体を作って世界に行きたい」と掲げていました。

いわきで、フィジカルトレーニングもそうですし、筋力トレーニングも含めて、たくさんのメニューとかも学びました。特にチリから帰ってきてから、昨年(2021年)の一年で重りとかもかなり持てるようになりましたし、そこはしっかりやれたなと思います。

今年、ヴェルディへ移籍してからも、週2から週3で午後は筋トレをしています。なんていうんですかね、いわきで培った「筋トレイズム」が体に染み込んでるんで(笑)。

本当に地味なトレーニングですけど、そういうところが結果にも繋がっているかなと思います。

――まだ東北1部リーグだった2019年当時のいわきFCへ加入するというのは、高校選手権で優勝した直後ということもあって驚いた方も多かったかと思います。高卒でいわきFCに入るメリットみたいなものはどうでしょう?

日本にはなかなかない、トップレベルの施設ですよね。

自分を育てられる、体をいじめられる、成長できる環境があるというのが本当に一番のメリットでした。逆にデメリットなんてなかったですね。

中3の頃から光っていた松木玖生

――バスケス選手が高校3年生の時、中学3年生で松木玖生選手がチームに入ったりしていたと思います。当時の印象と、今の彼のプレーを見て感じるところは?

玖生とは今でもそうなんですけど、割と仲が良くて。

彼が中3の頃、スタメンとサブ組で紅白戦をやる時に「普通にやっていた」というのが印象的で、「やるな」と思っていました。中3の時点でけっこう両足が使えましたし。

僕とかもそうでしたけど最初、高1や高2と全然右足が使えなくて。青森山田ではすごくそれを言われるんですよ。「両足を使えるようにならないと」って。

玖生は中学校から入ったことでそことしっかり向き合って、できるようになった。それがそのまま高校の成長に繋がっていますよね。高1から高2、高3と。

今、FC東京で試合に出ていますけど、自分も負けずにやりたいなと、すごく思います。

――今シーズンが自身初めてのJリーグですが、出場機会をしっかりつかんでいます。東京ヴェルディというチームの印象はどうですか?

加入が決まってからいろいろ調べたりしました。どこで練習しているのかとか、全然何も分からない状態で入ったんですけど、逆にそれが良かったです。

来てみて、みんな周りも上手いですし、すごくサッカーが楽しいです。たくさん学べることがあるなと思いますし、自分にも合ってるなと感じています。

――ヴェルディというと、昔から南米的というかそういう文化が根付いているクラブという印象があります。「南米的なところ」を感じることはありますか?

名前とかもそうですね。「ベルデ」はスペイン語で“緑”という意味ですし、それを変えて「ヴェルディ」にしたりとか。本当に歴史のあるクラブです。

――昨季、JFLを戦ったいわきFC時代と比べても出場機会が増えています。ここまでの自身のプレーを振り返っていかがですか?

いわきの時より感覚として良くなっていますし、良くなっていくことで自信も得られます。

もちろんやっていく中で「もっとできるな」というところもたくさんありますし、攻守にわたって課題もあります。ただ、試合に出て経験することで、いろいろなことを実感できます。

前に上手くいかなかったことは「ここはちょっとこうしよう」と考えることで、その試合で活きたりとか、良いプレーにつながっていく。サッカーは“完璧”がないので、試合に出ていると本当にたくさん学べることがあります。

ヴェルディに来てから4ヶ月くらいが経ってますけど(※インタビュー当時)、どんどん成長できてるなと思いますし、これからもっともっと殻を破って、もっともっと成長できるかなと思います。

今後のために決断した日本国籍取得

――バスケス選手はTwitterで「日本国籍取得」を決断したと発表されました。そういう考えに至った理由を教えてもらえますか?

それこそ、先ほど話をしたチリのことですかね。チリ、チリとずっと自分の中でなっていたものの、行ってみて、帰ってきて、たくさん考えることがありました。

当時はいわきFCもJFLでしたが、その次はもうJリーグです。「Jリーグに行きたいな」となった時に、もちろん当時いたいわきFCで活躍することも大事でしたし、それが一番だったんですけど、もし行ける実力があっても「外国人枠」というのがあります。

J1、J2においてもそうですけど、みんな“助っ人”ですよね。まだその時の自分は20歳になったくらいでしたが、いわきFCでプロ1年目を経験して、でもその後、チリで1年間を失ってしまったというか。言い方を変えればそこで気付けたんですけど。

2020年にほぼ1年サッカーをやっていなくて、そこで実績もない。そうなった時に、昨年夏くらいから親に話したところ、親も日本国籍をすごく押してくれてました。

これから日本でサッカーをして、Jリーグに行きたいのであれば、絶対に日本国籍のほうが自分にとってもよいです。短いサッカー人生ですから。

チリの経験でそれを気付けたので。昨年10月、11月くらいにはもう決断はしていました。「今年から動こう」みたいな話はもう決まっていましたね。

――バスケス選手は右サイドで出場することが多いですが、日本代表の右サイドには伊東純也選手や久保建英選手、堂安律選手がいます。「自分ならどんな違いを作れる」みたいところはありますか?

守備においても攻撃においてもチームのためにプレーできますし、攻撃では状況によって溜めを作ることができ、仕掛けることもできます。チャンスメイクの部分も自信はあります。

ただ、今はまだ日本代表のことは全然何も考えていません。僕は特にそういう性格なんですけど、多分一個ずつステップアップしていくタイプなので。しっかりと夢を持って、そこへブレずに向かいます。

周りに「お前は無理だろう」と思われていても、自分の中でどうでもいいんです。自分は絶対、“そういうチャンス”は自然と来るのかなと思っています。成長するしかないですね、日々。

――いわきFC時代にお話を聞いた時、モハメド・サラー選手(リヴァプール)を意識というか参考されてると仰っていました。今はどうですか?

サラーですかね、まだ。やっぱり“怖い選手”じゃないですか。点も決めることができて。

サラーとの一番決定的な違いはスピードなので、もっと足が速くなるようにトレーニングはしたいと思っています。

【関連記事】梶川諒太、ヴェルディに「3度獲得された男」が語る“天才”たちの共通点

――日本国籍の取得の手続きはだいたいどのぐらいかかるイメージですか?

書類がめちゃくちゃたくさんあるんですよ。法務省に相談しながら手続きなどをしていきます。

書類集めなどをしていくとおそらく相当時間がかかってしまうと思います。でも、できれば1年以内くらいに取りたいですね。

バスケス・バイロン

2000年5月16日生まれ(22歳)
東京ヴェルディ所属

© 株式会社ファッションニュース通信社