話題となった野田元首相の追悼演説 「好敵手」「寒くありませんか」「人柄の小渕」 党派を超えた過去の名演説を振り返る

立憲民主党の野田佳彦元首相が25日、今年7月に亡くなった安倍晋三元首相に対する追悼演説を衆議院本会議で行いました。

追悼演説では、自身と安倍氏との思い出や安倍氏の生涯を振り返りながら、暴力やテロに屈することなく民主主義の根幹である自由な言論を守り抜くことを呼びかけました。

「勝ちっ放しはないでしょう、安倍さん」

二度と安倍氏と論陣を張ることができない悲痛な思い、そして志半ばで亡くなったことを悔やむ気持ちがこの一言に詰まっているのではないでしょうか。

この追悼演説は与野党問わず称賛の声が相次いでいますが、今回は過去の追悼演説を振り返っていきます。

※衆議院では「追悼演説」、参議院では「哀悼演説」と呼ばれています。

「私は、だれに向かって論争をいどめばよいのでありましょうか」池田首相⇒浅沼委員長

1960年10月18日には、同月に亡くなった社会党の浅沼稲次郎委員長(当時)に対して、自民党の池田勇人首相(当時)が追悼演説を行いました。

浅沼氏は東京都千代田区の日比谷公会堂で行われた演説会中、暴漢に襲われて亡くなります。総選挙が近づく中での事件でもあり日本中に衝撃が走りました。

日米安保闘争や資本主義・社会主義などのイデオロギーの対立が激しい時代。池田氏はその垣根を乗り越えて演説に臨みます。

「ただいま、この壇上に立ちまして、皆様と相対するとき、私は、この議場に一つの空席をはっきりと認めるのであります。(中略)来たるべき総選挙には、全国各地の街頭で、その人を相手に政策の論議を行なおうと誓った好敵手の席であります」と、池田氏は浅沼氏を好敵手と表現したうえで、

「私は、だれに向かって論争をいどめばよいのでありましょうか」

と述べ、急逝した最大のライバルを悼みました。演説の中では、暴力による言論弾圧を糾弾し、与野党問わず多くの議員から拍手が送られました。

「先生、今日は外は雪です。随分やせておられましたから、寒くありませんか」尾辻参院議員⇒山本参院議員

2008年1月23日には、2007年12月に亡くなった民主党の山本孝史参議院議員に対して、自民党の尾辻秀久参議院議員が哀悼演説を行いました。

自らもがん患者であることを参院本会議にて告白した山本氏。山本氏は病魔と闘いながら「がん対策基本法」の成立に向け尽力し、法案成立から約1年後に亡くなりました。

追悼演説を引き受けた尾辻氏は、厚労相を務めていた際に山本議員と激しく論戦を交わす場面もありましたが、同時に社会保障分野の専門家として、ともに議員立法に汗をかいたようです。

「先生、今日は外は雪です。随分やせておられましたから、寒くありませんか」

山本氏は闘病生活でとても痩せてしまいました。それでも最期まで活動を続けた山本氏を偲んだ尾辻氏の演説に党派を超えて多くの議員が涙を浮かべました。

「この沖縄サミットだけは君の手で完結させてほしかった」村山元首相⇒小渕元首相

2000年5月30日には、同14日に亡くなった自民党の小渕恵三元首相に対して、社民党の村山富市元首相が追悼演説を行いました。

村山氏はいわゆる自社さ連立政権において首相に就任しましたが、小渕氏が首相のときには社民党は野党でした。政策的に激しい論戦を繰り広げましたが、二人の個人的な人間関係は続いていたそうです。

村山氏は追悼演説内において、「人柄の小渕」「気配りの小渕」など小渕氏の一面に触れつつ、小渕氏の大きな実績の一つであった「沖縄サミットの開催決定」についても述べました。

「今となってはかなわぬ夢となってしまいましたが、沖縄に集まる首脳たちの輪の真ん中に、どうしても君にいてほしかった。この沖縄サミットだけは君の手で完結させてほしかった」

小渕氏は大学時代に沖縄復帰運動支援などを行うグループに所属していたなど、沖縄に対する並々ならぬ思いがあったと言われています。小渕氏によって推し進められた沖縄サミットでしたが、サミット開催の2か月前に小渕氏は亡くなりました。

沖縄への思いが強い小渕氏だったらサミットを通して別のメッセージを伝えられたのではないかと想像させられる演説といえるでしょう。

党派は関係なく、人として尊重する慣例

この追悼・哀悼演説は、現職の国会議員が亡くなった際に慣例として続けられてきました。その多くは、故人の在りし日を偲んで人柄や功績が語られます。

たとえ考えは違っても、お互いを尊重しあう姿勢が示されるこの慣例に今後も注目をしていきます。

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