ユニクロ、NETFLIX、マクドナルド−−創業者に共通する「お金を増やす思考法」とは

世界の大富豪はどんな哲学を持ち、その考え方や生き方に共通点はあるのでしょうか?

ジャーナリスト・桑原晃弥 氏の著書『世界の大富豪から学ぶ、お金を増やす思考法』(ぱる出版)より、一部を抜粋・編集して似鳥昭雄、ジェシー・リバモア、レイ・クロック、ジョン・ポールソン、柳井正、リード・ヘイスティングスについて紹介します。


「私は勉強ができない。中学も高校もいつも最下位グループだった。人生を切り開くには実行力しかない」

「運は創るもの」
似鳥昭雄 (ニトリ創業者。日本を代表する資産家の1人)

ウォーレン・バフェットによると、 人生で最も成功するのはクラスで一番成績の良かった子ではなく、最も実行力のある子 だといいますが、ニトリ創業者・似鳥昭雄に成功をもたらしたのはまさに「学校の成績」ではなく、「実行力」でした。

幼い頃から家の手伝いに駆り出され、勉強する時間も満足になかったため似鳥は小中高と成績はいつも最下位グループでした。大学も学費を自分で稼ぐためにアルバイト漬けの日々を過ごします。「人生を切り開くには実行力しかない」と心に誓った似鳥は大学卒業後に父親が経営する会社の所有する30坪の土地と建物を使って家具屋を始めます。家具販売の経験のない、まだ23歳の似鳥は仕入れにも苦労しますが、店名だけは「似鳥家具卸センター北支店」とまるで大チェーンのような看板を掲げていました。

それでも何とか借金をして250坪の2号店を出店したところ、すぐ近くに1200坪の家具店が出店、売上は大幅にダウン。倒産の危機に瀕し、「死ぬことばかり考える」ようになりますが、「藁にもすがる気持ちで参加」したアメリカの家具店を視察するセミナーで、その後の成功につながるヒントを目にします。日本の家具がアメリカより3倍も高いことを知った似鳥は、「自分の力で給料を3倍にすることはできないが、価格を3分の1に下げることはできるかもしれない」と考えるようになります。

当時、似鳥はほかの参加者と「米国風の真似をしてみよう」と話したといいますが、結局、実行したのは似鳥だけでした。その過程では幾度もの危機があったものの、セミナー参加から31年目の2003年、ニトリは目標の100店、1000憶円の売上を達成します。2022年2月期の決算までニトリは35期連続の増収増益を記録、創業者の似鳥も日本を代表する経営者、資産家となっています。

ここがポイント
大切なのはアイデア以上に、それを実行するかどうかである。

「大衆と同じバスに乗っていても、時期が来たらいつでもそこから飛び降りようと身構えている。そして逆方向に進む結果となることも恐れはしない」

「世紀の相場師」
ジェシー・リバモア (ウォール街伝説の投機王)

株式相場を語るうえで1929年10月の大恐慌はすべての人の記憶に残る出来事でした。アメリカのみならず世界経済に大打撃を与えた大恐慌を引き起こし、株の大暴落を招いた張本人が「ウォール街伝説の投機王」と呼ばれるジェシー・リバモアです。

当時の新聞が書き立てたことであり、現実には1人の力でそんなことができるはずもありません。しかし、そう書かれても仕方がないほどリバモアのやり方は完璧でした。大暴落が起きる数か月も前からリバモアは高騰を続ける株価の先行きを下落と見て、売り込んでいました。株数にして100万株、金額にして1億ドルを超える仕込みを終えていたリバモアはすさまじい勢いで株価が下落する大恐慌のさ中、巨万の富を得ることになったのです。

貧しい農家に生まれたリバモアは14 歳の時に、母親からもらった5ドルのお金を手に親元を離れ、株の仲買店で株価をボードに書き込むチョーク・ボーイとなり、そこで相場師の心得を学んだのち、一匹狼の相場師として莫大な富を手にしたかと思うと、すべてを失うという起伏の多い人生を送っています。1人を好んだのは、リバモアの考え方が周囲の考え方と食い違うことが少なくなかったからです。

1929年夏、市場は上げ相場であり、世の中の見方は強気一辺倒、市場には「濡れ手に粟」を夢見る大衆が次々と繰り込んできていましたが、リバモアはみんなと逆方向へと進みます。「大衆と同じバスに乗っていても、時期が来たらいつでもそこから飛び降りようと身構えている。そして、逆方向に進む結果となることも恐れはしない」という考えからです。

相場師にとっての正念場です。リバモアは大衆と同じバスに乗ることも厭いといませんでしたが、たった1人でバスから飛び降りる勇気も持っていました。 「みんなと同じ」から得られるものはほとんどありません。 背を向けるクレイジーさこそが富をもたらすのです。

ここがポイント
横並び意識から飛びぬけた成果は生まれない。独力で考えろ。

「やり遂げろ、この世界で継続ほど価値のあるものはない。才能は違う、才能があっても失敗している人はたくさんいる。天才も違う、恵まれなかった天才は諺になるほどこの世にいる。教育も違う、世界には教育を受けた落伍者が溢れている。信念と継続だけが全能である」

「成功はゴミ箱の中に」
レイ・クロック (マクドナルド創業者)

マクドナルドの創業者レイ・クロック(52才)がマクドナルド兄弟からフランチャイズ権を獲得して、最初のフランチャイズ店をイリノイ州デスプレーンズに出店したのは1955年です。

きっかけはマルチミキサーのセールスをしていたクロックが、ハンバーガー店を開いていたマクドナルド兄弟と出会ったことです。全米から「カリフォルニアでマクドナルド兄弟が使っているのと同じマルチミキサーを売ってくれ」という奇妙な依頼が殺到することに興味を惹かれ、兄弟の店を訪ねたことです。

本来なら本業のマルチミキサーの売り上げを伸ばすことが目的だったクロックですが、兄弟の店の清潔さ、きびきび働くスタッフ、最高のハンバーガーとポテトフライに魅せられたクロックは、これと同じ店を米国中に展開するという素晴らしいアイデアを思いつきます。クロックはすぐに兄弟との交渉に臨みますが、そのアイデアを聞かされた周りの人間は一様に反対します。

「君の頭がおかしくなったのかと心配したよ。プリンスキャッスル・セールスの社長が、15セントのハンバーガー屋を始めるなんてさ」

それでもクロックは突き進みます。マルチミキサーの収入でやり繰りしながら、マクドナルド事業を立ち上げるべく「奴隷のように」働きます。やがてマクドナルド一本にビジネスを絞ったクロックは1961年にマクドナルド兄弟から270万ドルですべての権利を買い取り、展開を加速、亡くなる84年までに世界中に8000店舗まで拡大させています。たとえチャンスに気づいたとしても50代ですべて懸けた挑戦ができる人はほとんどいません。 52歳での決断と、「信念と継続」こそがクロックに驚異の成功をもたらしたのです。

ここがポイント
いくつになっても挑戦できる。大事なのは信念と継続である。

「何も分かっていないとか、間違っているとか言われるのにはうんざりしたよ」

「史上最大のぼろ儲け」
ジョン・ポールソン (ヘッジファンドマネージャー。慈善活動家)

みんなが「こうだ」とか「正しい」と信じていることに反した行動をとり、発言をするというのはとても勇気のいることですが、それでも信じる道を行くことで大きな成功を手にする人がいます。

サブプライムローン問題によって世界の投資家が被った損失は30兆ドルを超えると言われていますが、2007年だけで150億ドルもの利益を上げたのが、ジョン・ポールソン率いるポールソン&カンパニーです。ポールソンはサブプライムローンの異常性に気づき、不動産価格の上昇が止まった瞬間に大変な事態が起きると信じてCDSを安値で買い続けていましたが、ほとんどの専門家はそうした行動を冷ややかに見つめていました。

ポールソンは「専門家の人たちは、私のことをファンドマネージャーとしての経験が浅いといって片づけてしまった。私はずっと黙っていたからね。でも、何も分かっていないとか間違っているとか言われるのにはうんざりしたよ」と当時の心境を振り返っています。

これほど周囲から無視され、反対されればたいていの人は心が折れてしまいます。「間違っているのは自分なんじゃないか」と不安になり、「みんなの言うようにした方がいいのかな」などとなるものですが、ポールソンはここで踏ん張ったことで史上空前の利益を手にすることになったのです。

2006年7月、「住宅ローンビジネスの破綻を示す最初の兆候」があらわれますが、そこからさらに7か月を経てようやくサブプライムローン問題が表面化します。ポールソンが予測した事態の到来でした。投資家に限らず、 成功者は常識に反する行動や、大勢と反対の行動をとることで大きな成功を手にしますが、大勢に反する行動や言動にはいつだって批判の目が向けられます。 成功には判断への確信や折れない心が不可欠なのです。

ここがポイント
大勢と反対の行動をするためには判断への確信と折れない心が欠かせない。

「消費者は話題になった店へ足を運びます。そこで商品を手に取って、『これはいい店だ』と納得したら、『うちの近所にも一店欲しい』と思うんじゃないでしょうか」

「成功はゴミ箱の中に」
柳井正 (ファーストリテイリング創業者)

「ユニクロ」を中心とするファーストリテイリングを一代でZARAやH&Mと並ぶ世界企業にまで育て上げた柳井正は大学を卒業して、1年ほどのスーパーでの修行を経て家業を継ぐために山口に戻ります。任されたのは主にメンズショップ小郡商事(紳士服店が一店、カジェアルウェァのVANショップが一店)でした。

年商1憶円くらいの規模の店で、赤字ではないもののそれほど儲からない店だったといいます。当初、商売には不向きだと思っていた柳井ですが、覚悟を決めて仕事をするうちに「僕にもできそうだぞ」という自覚が生まれ、売上げを伸ばすためにさまざまな試行錯誤を重ねるようになります。

その後、父親に代わって社長に就任した柳井はかねてより考えていた10代の子ども向けに、流行に合うカジュアルウェアを低価格で提供する「ユニクロ」の1号店を広島に出店します。徐々に店を増やすとともに、販売する商品に関しても自社で企画して、生産も管理するようになったユニクロは1989年11月の原宿出店と同時期のフリースブームを起爆剤に急成長を遂げます。

やがて柳井の目は世界へ向かいます。2005年アメリカに3店舗を順次オープンしますが、大失敗します。「ユニクロ」など誰も知らなかったからです。しかし、失敗して終わるつもりのなかった柳井は、次に先端ファッションブランドが数多く出店するニューヨークのソーホーに出店します。目指したのは「世界最大で、最新で、最も進んだユニクロ」でした。大きな賭けでしたが、旗艦店オープンの宣伝を用意周到に進めたことで成功します。都市の中心に店があってこそチェーン展開が可能になります。柳井はそれを実践することでユニクロのさらなる成長を可能にしたのです。

ここがポイント
失敗して終わるな。より大きな挑戦をして成果を上げろ。

「『DVDの死』は必然であり、DVDにこだわると会社自体も共倒れになる。ストリーミングへ大きく舵を切ってこそ会社のためにもなるし、顧客のためにもなる」

「NETFLIX」
リード・ヘイスティングス (ネットフリックス創業者)

映画の見方だけでなく、映画のつくり方まで変え、今や世界190か国、約2憶人の人々が視聴するネットフリックスの創業者リード・ヘイスティングスはアフリカにおける平和部隊の活動などを経て1991年に30歳でピュア・ソフトウェアを設立、4年後の95年には株式上場を果たしています。

同社を売却した資金を元に1997年に創業したのがネットフリックスです。当初、ネットフリックスが行っていたのはウェブサイト上のオンライン店舗経由でユーザーはDVDをレンタル、見終わったユーザーは再び郵便で送り返すという世界初の「郵便DVDレンタル」でした。最初は会員数も伸びず、赤字を垂れ流す状態でしたが、DVDレンタル業界の巨人ブロックバスターとのし烈な戦いを制したことでその評価を高め、成長を加速させることになります。

本来なら一安心というところですが、時代はインターネット経由のデジタル配信の可能性を模索し始めていました。ヘイスティングスは2007年1月、中核事業のDVDレンタルサービスからストリーミング配信サービス「インスタントビューイング」への移行を決断します。タイトル数は1000とわずかなものでしたが、ここで決断しなければネットフリックスはじり貧になるというのがヘイスティングスの考えでした。

「DVDにこだわると会社自体も共倒れになる」と考えたヘイスティングスは 「誰かに食われるぐらいなら自分で自分を食う方がいい」 とストリーミング配信サービスに進出、その後DVDサービスを切り離すという選択をしたのです。この決断以降、ネットフリックスは膨大な映像コンテンツの獲得、さらにはオリジナル映画の製作へも進出、今やその影響力はGAFAにも匹敵すると言われるほどになっています。

ここがポイント
会社は変わり続けてこそ、成長し続けることができる。

著者:桑原晃弥

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