『鎌倉殿』忠臣・和田義盛の壮絶死は西郷隆盛のようだった 合戦中に2度の大酒、北條泰時が得た“教訓”

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第41回「義盛、お前に罪はない」では、和田合戦が描かれ、横田栄司が演じる和田義盛の壮絶な最期が話題となっています。この合戦の流れを見ていきます。

「北条義時を退け、亡き2代将軍・源頼家の子を将軍に擁立する」―。信濃国の武将・泉親衡を中心とする陰謀に、和田義盛の子(義直・義重兄弟)と甥・胤長が関与していました。義盛は、3代将軍・源実朝に、自らのこれまでの功績に免じて、息子たちの罪を許して欲しいと嘆願。これは容れられますが、甥・胤長は謀反事件の張本だとして、赦免はならず。和田一族の面前で、罪人として扱われ、連行されていきます(1213年3月9日)。

そして、同月17日、胤長は、陸奥国(福島県)に流罪となるのです。胤長の6つになる娘は、父の配流を悲しみ、病になってしまい、そのまま亡くなってしまいます(同月21日)。この出来事も、和田一族の悲しみを深め、怒りは増したことでしょう。

胤長の邸は、和田義盛に与えられたのですが(3月25日)、それが4月上旬になって取り消され、北条義時の家人に与えられることになります。これも、義盛の面目を潰すことになり、義盛の謀反心に火を点けたとされます。

邸の没収は、北条義時の挑発との説もあります。和田義盛自身は、謀反の回避に向けて動いていたとも言われますが、一族の若手が激し、止められず、ついに暴発に至ったとも言われます(『吾妻鏡』)。これが、本当だとすると、西南戦争(1877年)の際の西郷隆盛のような立場に、義盛はあった事になります。

1213年5月2日、義盛は挙兵。三浦義村の通報により、義盛謀反を知った北条義時は、落ち着いた様子で幕府に参上。北条政子と坊門姫(実朝の正室)を鶴岡八幡宮の別当(長官)の僧坊に避難させます。

義盛の軍勢は将軍御所を襲撃。義時の邸も包囲されます。御所で合戦が繰り広げられますが、何者かが放火したため、御所は炎上。将軍・実朝は法華堂(頼朝の墓所)に避難することになるのです。義時もそれに同行します。獅子奮迅の働きをする義盛とその家臣たち。しかし、北条方も必死に抵抗したこともあり、和田軍は一旦、由比ヶ浜に退いていきます。和田軍も疲弊し、兵糧も乏しくなっていました。

「日和見している豪族もいて、これを味方にした方が勝利する」。義時と大江広元は将軍実朝の名で書状を発し、それら豪族を味方に付けるのです。義盛は今一度、御所を攻めようとしますが、北条方の防備が厚く、突破することはできず。義盛の子・義直も討死していきます。溺愛していた息子の死に衝撃を受けた義盛は、戦う気力を失くし、ついに討ち取られてしまうのです。激闘の末、和田合戦は終結します。

この合戦には、義時の子・泰時も参戦していました。しかし、泰時は和田合戦の前夜、飲み会をしていたのです。二日酔いの状態で合戦に参加した泰時は(2度と酒は呑まぬぞ)と決めていましたが、和田方と合戦を繰り返すうちに、喉も渇いてきます。

そうした時、側にいた武蔵国の武士・葛西六郎が小筒を勧めてくる。なかには酒が入っていました。喉の渇きに負け、泰時は酒を呑んでしまいます。合戦が終わって後、泰時は皆の前で、自戒の念を込めて言いました。「人の心など分からぬもの。が、これからは大酒は控えることにしよう」(『吾妻鏡』)と。酒は飲んでも呑まれるなという事ですね。

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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