ホテル京セラの上棟式。「社長の自室は最上階ですか?」と尋ねられた稲盛さんは否定した。「一般の客室を使うよ」

稲盛和夫氏

 京セラやKDDIを創業し、日本航空(JAL)再建に尽力した京セラ名誉会長の稲盛和夫さん=鹿児島市出身=が8月下旬、亡くなった。日本を代表する経済人になってからも鹿児島を愛し、支えた「経営の神様」。薫陶を受けた人々に、心に残る教えや思い出を聞く。

■元鹿児島県商工労働部長 迫一徳さん(81)

 稲盛和夫さんは鹿児島玉龍高校の1期生で、私は9期生。当時は面識がなかった。鹿児島県庁に入庁し秘書課に勤めていた時、企業誘致に注力した金丸三郎知事と稲盛さんとのトップ会談で、京セラが鹿児島に工場を造ることが決まった。この頃から、稲盛さんに親しみを抱いていた。

 商工労働部にいた平成の初め、宿泊施設と商業施設を一体的に整備するテクノポリスセンター(旧隼人町)の企業公募に携わった。この時、京セラ興産からホテル事業に応募があった。

 当時の土屋佳照知事は「京セラはホテル事業の経験がないと思うが大丈夫か」と懸念を示した。稲盛さんに確認すると、「世界に通用するものを造ることができる」と返事があった。「これまでの経験から、ホテルのあるべき姿、あってはならない姿をわきまえている」との自負を伝えられたのを覚えている。土屋知事は納得し、ゴーサインを出した。

 知事の代理で出席した上棟式で、「社長の自室はやはり最上階ですか」と尋ねてしまった。稲盛さんは「自分が来る時は、一般の客室を使うよ」と否定。愚問を恥じるとともに、私事を優先しない人と確信した。

 95年に完成した「ホテル京セラ」はグレードの高いしゃれた外観。チャペルがあり結婚式も挙げられる仕様だった。京セラの川内、国分、隼人の工場には若い社員が大勢いる。自社のホテルで従業員に挙式してもらえれば、との思いもあったのではないか。

 テクノポリス構想では、ホテルの横に商業施設を造るということになったが、計画は行き詰まった。稲盛さんはホテルの落成式で酒を飲みながら、実現しなかった商業施設建設に対し、真顔で皮肉を言った。「俺は約束を守ったからな」

 2001年、商業施設の建設予定地だった場所には、ホテル京セラの別館が誕生した。稲盛さんへの感謝の気持ちは生涯忘れない。

(連載「故郷への置き土産 私の稲盛和夫伝」より)

稲盛和夫さんとの思い出を語る元鹿児島県商工労働部長の迫一徳さん=24日、鹿児島市
商業施設の建設予定地に立つホテル京セラ別館=2001年4月

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