『鎌倉殿』将軍・実朝 日宋貿易の夢は無残な結末 頼朝とは面会拒否した中国人と“夢のお告げ”で絆も

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第42回「夢のゆくえ」で描かれていた通り、鎌倉幕府の3代将軍・源実朝が唐船を建造させ、宋(中国)に渡ろうとしたそもそもの契機は、宋人・陳和卿が鎌倉にやって来たことにあります。この話は一般的にあまり知られていないようですね。

和卿は、焼失した東大寺大仏殿の再興に尽力した人物です。東大寺の再建供養式典の際(1195年)、源頼朝(実朝の父)は、和卿に面会を希望しますが、和卿は拒否。その理由は「頼朝様は、多くの人々を殺してきた。罪業が重い」というものでした。そんな和卿が何しに鎌倉に?

頼朝の時とはうって変わって「実朝様は仏様の化身なので、是非ともお顔を拝したい」と和卿は主張したそうです。1216年6月15日、実朝と和卿は御所で対面。和卿は拝礼し、感激の余り、涙を流したそうですね。

実朝が対応に戸惑っていると、和卿は「実朝様の前世は、宋国の医王山(現在の浙江省寧波)、阿育王寺の長老だったのです。その頃、私の前世は、その門弟でした」と言い出します。急にそんなことを言われたら、胡散臭さ満載ですが、実朝は5年前の6月3日の深夜に、夢を見ており、その中で、高僧が現れ、和卿と同じようなことを告げていたのでした。ですから、実朝は「あの夢は本当のことだったんだ」と和卿の発言を信じてしまったというのです。

和卿の言葉を信じた実朝は何を思い、どう動いたか?そう、自分の前世にいた中国に行き、医王山、阿育王寺を見たいと念願したのです。

そのためには、船が必要ということで、実朝は和卿に「唐船を修造せよ」と命じます。中国にお供をする人数(60人)まで実朝は決めたというから、行く気満々。北条義時や大江広元は、実朝に思いとどまるように諫言しますが、実朝は言うことを聞きませんでした。翌年(1217年)4月17日、唐船はついに完成。

数百人の人夫を使い、由比ヶ浜に船を浮かべようとしました。実朝や義時もその様を見ていました。皆、頑張って船を引っ張っていったのですが、遠浅の浜辺では、大きな船を浮かべることはできませんでした。唐船は、浜辺で朽ち果てていったといいます(『吾妻鏡』)。実朝は中国行を断念したのでした。和卿のその後の消息も不明です。

実朝はなぜ中国に渡ろうとしたのか?前世云々の問題だけでなく、日宋貿易を直接、実朝が掌握しようとしたのではないかとの説もあります。しかし、その夢は脆くも潰えたのでした。

(歴史学者・濱田 浩一郎)

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