相川七瀬「夢見る少女じゃいられない」織田哲郎がズブの素人をゼロからプロデュース!  織田哲郎が衝撃を受けた相川七瀬のパフォーマンスとは?

90年代デビューアーティスト ヒット曲列伝vol.2

■ 相川七瀬「夢見る少女じゃいられない」 作詞:織田哲郎 作曲:織田哲郎 編曲:織田哲郎 発売:1995年11月8日 売上枚数:36.8万枚

1990年~1999年の10年間にデビューし、ヒットを生み出したアーティストの楽曲を、当時の時代背景や、ムーブメントとなった事象を深堀しながら紹介していく連載の第2弾。今回は、相川七瀬のデビューシングル「夢見る少女じゃいられない」を紹介します。

ギターのアイデアを形にしたかった織田哲郎がプロデュース

相川七瀬をプロデュースしたのは織田哲郎。

1986年に、TUBEの「シーズン・イン・ザ・サン」を作曲して以降、アーティストへ楽曲提供でヒット曲を連発し、1987年にはTUBEのメンバーらと、“渚のオールスターズ” を結成しボーカルを担当。1992年には、大塚製薬の「ポカリスエット」CMソングに起用された「いつまでも変わらぬ愛を」が92万枚のヒットを記録―― と、織田哲郎を作曲家、ボーカリストとして認知している方が多いと思いますが、音楽家を目指すきっかけになったのは、ギター。自身のYouTubeでも、

「エレキギターのプロになりたかった」

―― とおっしゃっています。

なぜならなかったのか。それは高校時代、高知から東京の学校へ編入することになり、そこで同級生に北島健二、一つ上の先輩に、すでに “子供ばんど” を組んで活動していた、うじきつよし―― と、今でもそのテクニックやパフォーマンスが語り継がれている名ギタリストと出会い、“とてもじゃないけどこんな凄い人と競い合うのは無理!” と、ギタリストの道をあきらめることに。

しかし、「ギタリストになりたかった」想いは、音楽家としてデビューした後も捨てずに持ち続け、そのアイデアを、相川七瀬との出会いで一気に爆発させることになるのです。

たまたま出会った “あの面白いやつ”―― 相川七瀬

1990年に、CBSソニーグループのアイドルオーディションが開催されます。織田哲郎は、TUBEの「シーズン・イン・ザ・サン」をリリースしたレコード会社という縁もあり、そのオーディションに審査員として参加していました。

審査員などの仕事は全くやってこなかったのに “たまたま” そのオーディションだけは引き受けることになったのですが、審査がスタートして、一人目に入ってきた中学3年生に織田哲郎は衝撃をうけます。その衝撃を自身のYouTubeでこのように話しています。

「審査員を睨みつけ、叫ぶように工藤静香の「嵐の素顔」を歌い、去っていった。アイドルな感じが1ミリもなかった。完全にパンクでした」

その中学3年生は、相川七瀬。

アイドルオーディションは不合格となってしまいますが(当然か)、織田哲郎はオーディションでの衝撃的なパフォーマンスが頭から離れなくなってしまい、「ずっと溜めてきたギターのアイデアを、あの面白いやつとだったら形にできるかもしれない」と思い、オーディションから1年後、直接、本人に連絡をします。家族とも会い「自分がしっかりプロデュースします」と伝え、2人はデビューに向けて文字通り、ゼロから動き始めます。

90年代に誰もやってなかった、ダークなギターロック

織田哲郎が、全くの素人だった相川七瀬をゼロからプロデュースし、1995年11月8日のリリースされたデビューシングルの「夢見る少女じゃいられない」は、アン・ルイスの「あゝ無情」や「六本木心中」を彷彿とさせる、親しみやすいメロディに、ギタリストが弾いてみたくなる、絶妙な攻めのアレンジを加えた “歌謡ロック” 系譜のサウンドと、パワフルだけどカワイイらしさも感じるビジュアルと歌声を、あえて顔をしっかりと映し出さない謎めいたスタイルのジャケットやミュージックビデオを制作。リリースから2か月後にシングルチャートTOP20にランクインし、そこから6週続けて上位をキープし、36.8万枚売り上げを記録しました。ヒットにつながった要因は、2つあると分析します。

1つ目は、“GIRL POP” へのアンチテーゼ――

GIRL POPは、ナチュラルな志向で、等身大の “恋愛“ を描いた歌詞を爽やかなサウンドにのせて歌う女性シンガーのムーブメントのことで、1990年代初頭に誕生し、1995年前後は、GIRL POPアーティストを専門に取り上げる雑誌や、テレビ・ラジオで専門番組が盛り上がっていた時期でした。

織田哲郎は、自身のYouTubeで「当時「夢をみれば叶う」と歌うことが系統として多かった女性が歌うロックに関して、違うだろ! 夢見てたってかなわねえよ。本気でやりたいなら、計画立てて実行していけ! という思いで「夢見る少女じゃいられない」を書いた」と話しています。当時の流行と “あえて“ 逆張りしたことで大成功。織田哲郎は、GIRL POPのイメージとは真逆の雰囲気を醸し出している人を探していたのかもしれません。

2つ目は、転換期のエイベックスからデビューしたこと――

相川七瀬は、レコード会社「エイベックス」のmotorodレーベルからデビューしています。エイベックスは、1993年にtrfの「EZ DO DANCE」がヒットして以降、小室哲哉プロデュースの作品を筆頭に、“ダンス系“ J-POPでヒットチャートの上位を席捲していました。TVのCM(特に深夜)で新曲を大量オンエアし、認知をあげる販売戦略で多くのヒット曲を生み出していたエイベックスが、ダンス系以外のジャンルにも力を入れ始めたようとしていたタイミングに、織田哲郎が溜めてきたギターのアイデアと相川七瀬という新しい原石の提案がバッチリハマりました。そんなダークなロックサウンドの「夢見る少女じゃいられない」は、深夜のTVスポットで大量オンエアされ、ヒットにつながりました。

「夢見る少女じゃいられない」の2番の歌詞で歌われているのは――

 きっと誰かが  いつかこの世界を変えてくれる  そんな気でいたの  もう自分の涙になんか酔わない  ウィンドウあけて  街中に Bang! Bang! Bang! Bang!

プロデューサー織田哲郎の、ギターで成功したいという夢から生まれた、ダークだけれど人懐っこいサウンドと、相川七瀬の、歌手になるという夢を持ち続けた、高音が遠くまで響くボーカルスタイルが合致し誕生したデビュー曲は、信じ続けた2人の確固たる思いと、運命的な出会いが重なり合って生まれたロックナンバーなのです。

カタリベ: 藤田太郎

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