出征前の父がくれたランドセル 露侵攻でよみがえる戦禍の記憶 松尾清子さん(81)

「正しいことを正しく言える世の中になってほしい」と願う松尾さん=南島原市布津町

 砲撃で崩れ落ちた家の前にぼうぜんと立ち尽くすお年寄り、地下壕(ごう)で不安げな表情を浮かべる母子-。ロシアのウクライナ侵攻のニュースが流れるたびに、戦禍の記憶がよみがえる。「一日も早く戦争が終わり、元の生活に戻ってほしい」
 第二次世界大戦末期の1945(昭和20)年、長崎市十人町で母方の祖母と父母、姉弟の6人で暮らしていた。4歳のわりにしっかりした子だったようだ。空襲警報が鳴ると「B29(爆撃機)が来た」と叫び、防空頭巾とリュックを準備。靴ひもをキュッと結ぶと、乳飲み子を抱えた母に「迷惑をかけるまい」と思い、坂の上の防空壕まで走った。
 三菱関連の仕事をしていた父が戦地に赴く前、真っ赤なランドセルを二つ買ってきた。小学校入学前の姉と4歳の私のためだった。「ランドセル姿は見られまい」と覚悟したのだろう。家族を残して戦地に旅立った父の気持ちを思うと、涙がこぼれる。
 45年1月、父に召集令状が届いた。3月23日、祖母と母は不吉な夢で目が覚めた。「同じ夢を見るのは(父に)よくないことが起きたのかも」。身を案じて佐世保市の相浦港まで手作りのおはぎを持参したが会えずじまいだったという。その後の知らせで、父は3月19日、東シナ海の洋上で戦死したと聞いた。享年35歳。お骨はなかった。形見の水兵帽だけが返ってきた。
 戦局が激しくなった5月、遺された家族5人で父方の親戚のいる南高来郡布津村(当時)に疎開。長崎駅から1日がかりだった。空襲警報のたびに列車が止まった。どこかの農家からもらって食べた「おむすび」の味が忘れられない。祖母も母も「家族にひもじい思いはさせまい」と懸命に働いた。大工の伯父も一家のために平屋の家を建ててくれた。
 静かな田舎暮らしで平穏を取り戻したが、牛が「モー」と鳴くたびに「空襲警報だ」と叫んだ。8月9日、長崎への原爆投下は小学生になって知った。15日の終戦の日。周囲の大人は「日本が負けた」と騒いでいたが、戦争が終わったことがうれしかった。
 女手一つで育ててくれた母から「これからは女性も仕事を持たなくてはならない」と教えられた。高校、大学に進み、小学校教員になった。児童やわが子には「正しいことを正しいと言える子に育ってほしい」と願った。
 戦時中、出征した家族への手紙に「元気で帰ってきてください」は、ご法度で「お国のために頑張ってください」と書かされたそうだ。「欲しがりません勝つまでは」も一緒で、戦時中に数多く作られた「国策」の標語だった。
 暴力で物事を解決するのではなく、言葉で伝えることの大切さと、言葉が相手に伝わった時のうれしさを、教育者としても、親としても子どもたちに説いてきた。その積み重ねが平和につながると信じて。
 ウクライナ侵攻や世界各地で起きる紛争。忍び寄る戦争の足音が気になる。「平和で安全な環境があるからこそ、子どもは挑戦したり、わがままを言ったり、感情を表現できる。笑顔のない世の中にしてはいけない」


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