作業着姿で腰に手ぬぐい、借家住まいで車は軽。京セラの稲盛さんはそんな社長だった。「腕時計は太陽電池で動き、計算機にもなる」。当時語った夢は全て現実になった

稲盛和夫氏

 京セラやKDDIを創業し、日本航空(JAL)再建に尽力した京セラ名誉会長の稲盛和夫さん=鹿児島市出身=が8月下旬、亡くなった。日本を代表する経済人になってからも鹿児島を愛し、支えた「経営の神様」。薫陶を受けた人々に、心に残る教えや思い出を聞く。

■京セラ元社員 岩城慎二さん(75)

 京セラ鹿児島川内工場が操業開始した翌年の1970年1月に入社した。携わったのは数十工程もある電子部品作り。手作業が多く不良品もよく出た。きつかったが、やりがいはあった。

 ある日、本社から幹部が来られた。背広姿の一陣の真ん中にひげもそらず、作業着姿で腰に手ぬぐいを下げた人がいた。それが稲盛さんだった。

 工場に滞在するときは朝礼で訓示をされた。「みんなで作る製品で世界一になるんだ」「今の電子計算機は大きく高価だが、手のひらに乗るぐらい小さくて買える値段になる」「腕時計が太陽電池で動き、計算機も組み込まれる」。夢を聞きながら「四苦八苦しているときに何を」と思ったが、その通りになった。

 当時の工場では毎朝、6カ条の信条を唱和した。これが会社の哲学「京セラフィロソフィー」の原点になったのだと思う。

 仕事には厳しく、特に幹部はみんな直立不動で怒られていた。私も川内の5階建て工場建設を任されたときの苦い思い出がある。練りに練った案を持っていくと、しこたま怒られた。オイルショックの時代だったので節約した案だったが、「倍にしろ」と言われた。先を見る目はさすがだった。

 仕事を離れると面倒見がよく、酒を飲むと日付が変わってもとことん付き合ってくださった。本人はぜいたくをせず、社長なのに長く借家に住み、自家用車は軽自動車だった。

 日本をリードする方々との付き合いも多かっただろうが、われわれと話すときは同じ目線で話された。「目標の山はどこから登るのか」「己を磨け」「人生の結果=考え方×熱意×能力で、考え方が一番大事」。教わった話は退職してからも私の礎になっている。

(連載「故郷への置き土産 私の稲盛和夫伝」より)

稲盛和夫さん(右)と酒を酌み交わす岩城慎二さん(岩城さん提供)
京セラの仲間とゴルフを楽しむ稲盛さん(左から2番目)と岩城さん(同3番目)

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