「盲目の弁士」生涯追う 平塚出身の民権家・府川謙斎、伊勢原で資料展

神奈川県内で自由民権運動に取り組んだ人々について調査する「雨岳民権の会」のメンバー。代表の豊さん(前列中央)が手にするのは「江村栄一賞」受賞の記念品=伊勢原市上粕屋の雨岳文庫資料館

 明治期の自由民権運動に取り組んだ神奈川県内ゆかりの人々を紹介する資料展が、伊勢原市上粕屋の雨岳(うがく)文庫資料館で開かれている。4回目の今回は平塚出身で「盲目の弁士」と称された府川謙斎の生涯を追った展示や講演会を行う。

 地域の近現代史を調べる市民団体「雨岳民権の会」の主催で、「郷土の誇れる歴史を知ってもらい、次につなげたい」と、若者の来館も心待ちにしている。

 同会は1881年に設立された地域最大の結社「湘南社」の拠点だった「雨岳文庫」で活動している。資料を基にフィールドワークを行う活動が評価され、昨年には自由民権運動の研究者や団体を表彰する「江村栄一記念賞」を受賞した。

 展示では県内で展開された運動をパネルで紹介しているほか、湘南社で学んだ若き民権家6人が執筆した憲法や主権に関する論文が並ぶ。

 同会の豊雅昭代表によると、1851年に平塚で生まれた謙斎は、7歳の時に天然痘で失明し、はり治療で生計を立てていた。医療行為を学ぶため、政府に留学生渡航書を提出したが視覚障害を理由に却下され、自由民権運動に取り組んだという。

 その後、運動が盛んだった土佐(高知県)出身で初代神奈川県知事を務めた中島信行や湘南社社長の山口左七郎の知遇を得た謙斎。論旨明快な演説で頭角を現し、政府の激しい弾圧を受けながらも県内各地を飛び回った。

 35歳ごろには向学のため、つえ1本で土佐へ向かい「東洋大日本国国憲按」を記した植木枝盛らと面会、昼は鍼灸(しんきゅう)師、夜は演説会に出る生活を送った。だが、5年後に気管支炎の悪化で帰郷を決意するも、途中の三重・津で客死、42歳だった。

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