原発事故から11年超「再び住むことが許された街」の現実   福島・双葉町、やっと一部解禁

双葉町内に残るバリケード=8月30日

 2011年3月、東京電力福島第1原発事故で福島県の市町村には大量の放射性物質が飛散した。5、6号機が立地する福島県双葉町は「全町避難」となり、その後、11年5カ月間にわたって居住人口ゼロの状態が続いた。今年8月30日午前0時、町の面積の15%だけは、居住がやっと解禁された。「住むことが許される」とはどういうことなのか。前夜から双葉町を見つめた。(共同通信=加我晋二、堺洸喜、古結健太朗)

全町避難が解消された福島県双葉町。手前はJR常磐線双葉駅。上は東京電力福島第1原発=8月30日(小型無人機から)

 8月29日夜、真新しいJR双葉駅前の広場を、ちょうちんが明るく照らしていた。一帯は立ち入り禁止の「帰還困難区域」だったが、2020年3月の常磐線全線再開に合わせ、駅周辺のごく一部は避難指示が解除されている。
 今回、居住が可能になるのは駅の周辺など、かつての中心部を含む5・55平方キロの特定復興再生拠点区域(復興拠点)と、東日本大震災・原子力災害伝承館や企業誘致の拠点が建設された町北東部の2・2平方キロだ。

 29日午後7時20分ごろ、駅前広場で町民有志による「おかえりプロジェクト」というカウントダウンイベントが始まった。
 特設ステージに上がった進行役の男性2人が、町内で酒を飲み歩いた思い出を語り出した。「あそこで飲んで、吐いて…。町がゲロだらけだった」。明るい声で続けるが、どうしても切なくなる。「楽しい双葉町が戻ってきたらいいなと思うけど、何十年後でしょうねぇ」
 原発事故当時、町職員として防災行政無線で避難を呼びかけた宇名根良平さん(46)もステージに立ち、振り返った。「町内の避難所に逃げることになったとしても、町ごと避難するなんて本当に想像してなかった」

JR双葉駅前でともされたキャンドル=8月29日

 午後8時半ごろ、駅前広場に約2千本のキャンドルがともされた。集まった人々がうっとりと眺めている。キャンドルの一部にはメッセージが書かれている。近くにあった一本を見てみた。「一人でも多くの方がふるさとに戻れますように」
 ステージ上では、その後も集まった人々が思い出などを順番に語っている。午後11時すぎ、解除まで1時間を切った。伊沢史朗町長がマイクを握る。ざわざわしていた会場が静かになり、皆が真剣に耳を傾けた。
 震災当時は町議だった伊沢氏。話し始めたのはやはり11年前の苦しい体験だ。
 被災翌日に避難生活が始まり、食事さえままならない状態が続いたこと、埼玉県への集団避難に加わり、さいたまスーパーアリーナの廊下で段ボールや毛布を敷いて雑魚寝したこと…。そして聴衆にこう語りかけた。
 「今の双葉町は、まだまだ生活するには全てが整っているわけではない。ただ、あれだけ厳しい避難生活を送っていれば、そんなにネガティブに考える必要はないのではないか。何とかなるのではないか」

JR双葉駅前で行われたイベントであいさつする伊沢史朗町長=8月29日

 町長に就任した2013年3月は、町役場がまだ避難先の埼玉県加須市に置かれていた。その年の6月に福島県いわき市に役場機能を移し、その後は除染で出た土などを保管する中間貯蔵施設の受け入れ、原発処理水の海洋放出設備の着工了解など、重要な判断をたびたび求められた。
 「賛否両論はあると思うが、誰かが判断しなければならない。正しかったのかどうかは常に考えている」と人々の前で胸の内を明かし、最後にこう結んだ。
 「皆さんの前で話したことはおそらく一生忘れない。必ず双葉を復興させて、戻ってきた人や移住者が『来てよかった』と思える町にしたい」
 小雨に降られながら、感情を表に出さず、淡々と語る姿が印象的だった。
 午前0時が近づき、駅前広場で司会者がカウントダウンを始めた。
 「5、4、3、2、1…」。ゼロのタイミングで、宇名根さんが代表して「希望のとびら」と名付けられたピンク色のドアを開け「ただいま!」と叫んだ。集まった町民たちは「おかえり!」と拍手で祝福する。
 その直後、町職員が「広報ふたば」の号外を配り始めると、次々に手が伸びてくる。新聞の号外のような大きさのA3判に「8月30日午前0時 避難指示解除」の大見出し。

「広報ふたば」の号外を配る双葉町職員(右)=8月30日

 記事は「この11年でみな生活の拠点を町外へと移しているが、整備中の災害公営住宅への申し込みも順調に進められている」「解決すべき課題はまだまだ山積しているが、ようやく踏み出した第一歩は、確実に真の復興へと向かっている」と書かれていた。
 午前7時半。朝の双葉駅前は深夜のにぎやかさと打って変わり、静寂に包まれていた。電車はたびたび到着するが、降りてくる人はほとんどいない。南に50メートルほど離れた場所では、宅地整備工事の作業員らが朝礼中だ。工事関係者ばかりが目につくのは、解除前と何ら変わりない。
 午前8時50分ごろ、町の案内業務などを行う「ふたばプロジェクト」の小泉良空さん(25)が花壇の草むしりを始めた。「町に来る人から『花があると鮮やかだね』と言われます」と笑顔を見せた。
 そうこうするうちに、駅前広場で行われる防犯パトロール出動式の準備に警察官がやって来た。午前10時前、福島県警音楽隊による松田聖子のヒット曲「青い珊瑚礁」などの演奏で出動式はスタート。双葉署長や町長があいさつした後、ファンファーレが鳴る中、パトカーや消防車が出発していく。
 式典を見守っていたのは鵜沼久江さん(69)。「町の節目を見ておきたい」と、避難先の埼玉県加須市から訪れた。前夜のカウントダウンイベントにも顔を出したが、双葉にすぐ帰還する住民はいなさそうだと感じたという。
 「うわべだけの復興だね」とぽつり。鵜沼さんの自宅がある場所は帰還困難区域のままだ。戻れるめどは立っていない。私はお祭りムードに高揚していたことが恥ずかしく、現実に引き戻された感覚になった。

避難指示が解除された自宅で愛犬を抱いてくつろぐ谷津田陽一さん=8月30日

 一方で、数は少ないものの、町に戻ってきた人もいる。元競輪選手の谷津田陽一さん(71)は、1月から行われてきた「準備宿泊制度」を使い、自宅に戻ってきていた。谷津田さん方を訪ねるとほっとした表情でコーヒーを味わい、リラックスしている様子。「引かれていた線がなくなり、解放されたような、太陽が出てきたような感じ」
 避難生活では、受け入れ先への遠路がどうしてもあったが、今後は妻、愛犬2匹と楽な気持ちで暮らせそうだという。
 ただ、あまりにも町に帰る人が少なく「がっかりもしている」と漏らした。「赤ちゃんからお年寄りまでいるようになって、初めて復興かな」

復興拠点にある自宅を訪れた国分信一さん。窓から見える風景はこの11年5カ月余りで一変した=8月30日

 駅の西口では、町営住宅86戸の建設工事が続いている。国分信一さん(72)はここに来年、入居する予定だ。現在は福島県沿岸部の南端・いわき市に避難している。
 30日午後、建設現場の北に位置する、かつての自宅を見せてもらった。居間に残されていた時計は、東日本大震災が起きた午後2時46分から2分ずれた2時48分を指している。国分さんは時計を見て「震災の時に止まったままなのかな」と語った。
 2階の子供部屋に入った。南向き窓からは福島第1原発を望めるというが、この日は雨で全く見えない。視線を下げると、近隣にあるのは雑草が伸びた更地だけ。原発事故前は住宅が100軒ほど立っていたそうだ。
 「この辺りは地元出身の人が少なく、住人の7割くらいが東京電力の関係者だった。みんな実家の近くに帰ったり、東京に住んだりして双葉を離れてますね」
 一変した風景を見る国分さんはどこか寂しそうだった。
 駅周辺を歩いていると、完成したばかりでぴかぴかの町役場庁舎が見えた。ただ、そこから道路を1本隔てると、放置され、荒れ放題の建物が並んでいる。
 一戸建て住宅、信用金庫の支店、医院…どこにも人の気配はない。窓ガラスが割れている店や今にも崩れそうな建物。伸び切った草木のために、近づくことさえできない家もある。

荒れ果てた飲食店内には2011年3月のカレンダーが残されていた=8月30日

 1軒を外からのぞいてみた。家主の避難中に野生動物が入りこんだのか、室内は荒れ果てていた。カウンター席や椅子を確認できため、飲食店だったのだろうとかろうじて想像できた。壁にかかるカレンダーは、2011年3月のままだ。
 車を走らせて中心部を離れた。道路沿いには「この先帰還困難区域につき通行止め」と書かれた黄色い看板と無機質なバリケードがあちこちで目に付く。こうした帰還困難区域についても、政府は2020年代に希望者が帰還できるようにする、と目標を掲げているが、具体的なめどは立っていない。
 きれいな駅前だけを見ていると、双葉町の復興が順調であるかのように錯覚する。しかし、少し離れるだけで「住民が消えて時が止まったままの町」からほとんど変わってないという現実が見えてくる。
 現状では、一部の区域だけがスタートラインに立ったに過ぎない。「復興した」と言えるまでにどれくらいの時間が必要なのだろうか。

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