お好み焼きに希望を… 中東ヨルダンで「復興の歴史」伝える 現地取材

広島から西へおよそ9000キロ…。

中根夕希 キャスター
「中東の国・ヨルダンの首都・アンマンです。いくつのもの丘の上に建物が連なっているのが特徴でして、人口は年々、増え続けているということです。街中もたくさんの人たちでにぎわっていました」

中東の国「ヨルダン・ハシミテ王国」。その歴史は、紀元前までさかのぼります。

2000年以上の歴史があるといわれる世界遺産ペトラ遺跡。

中根夕希 キャスター
「こんな岩にこんな精巧なものがつくれるんですね。なんか、鳥肌立ちました。すごい」

映画のロケ地としても知られ、中東やヨーロッパなどから多くの観光客が訪れる人気スポットです。

中東の国とはいえ、ヨルダンでは石油は採れません。遺跡などを生かして「観光業」に力を入れています。

首都アンマン中心部のスーク(市場)です。

こちらは、主食のパン「ホブズ」。あらゆる料理にディップしたり、巻いて食べたりします。

中根夕希 キャスター
「カラフル。スイカだ!」

市場には果物や野菜が豊富。オリーブ・スパイス・ナッツなども多くありました。

そんなヨルダンの街角でお好み焼きが…。

ヨルダンの人たち
「とってもおいしいよ。こんなにおいしいと思わなかった」

きょうのテーマは、『ヨルダンってどんな国? 広島のお好み焼きが平和の架け橋に』

イスラエル・シリア・イラク・サウジアラビアと接する、ここにヨルダンがあります。美しい観光資源がある一方で、周辺は紛争当事国に囲まれ、多くの難民を受け入れているという一面もあります。

第1次中東戦争(1948年)・第3次中東戦争(1967年) → パレスチナ難民
湾岸戦争(1990年)・イラク戦争(2003年) → イラク難民
シリア内紛(2011年~) → シリア難民

その数、国民の3分の1以上に及ぶといわれています。

ヨルダンとは、どんな国なのか。そして、ヨルダンで広島のお好み焼きがどのように伝わるのか、現地で取材をしてきました。

首都アンマンから車でおよそ1時間。わたしは、第2の都市ザルカへ向かいました。目的地は、ヨルダンで最初にできたというパレスチナ難民キャンプ。

パレスチナ難民を直接、援助している国連機関の職員・清田明宏 医師に案内してもらいました。

国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA) 清田明宏 医師(61)
「建物がかなり古いですね。窓ガラスも割れているし…」

― 壁がもう、中が見えちゃっていますよね。これが1950年代くらいに建てられた?
「そうです。(パレスチナ難民は)1948年に来て、当時はテントだったんですけど、自分の区画に家を造って、上に伸びていったと」

― 自分たちで作った家なんですね。

およそ70年前の戦争で避難したパレスチナ難民1世から数えて、今は4世代目…。わずか0.18平方キロというせまい区画に今では2万人以上もの人が住んでいるといいます。

わたしが驚いたのは、キャンプ内の市場の活気です。洋服や生活雑貨など、ありとあらゆるものが売られています。

清田明宏 医師
「バナナはどこ産かな。たぶん輸入物。このぶどうはヨルダン(産)ですね」
― おお、なんか色が薄い。

「この柿もヨルダンですよね」

― 柿もできるんだ。
「ええ、柿もできます」

― キュウリ、まだ花がついている。
「1キロ100円。全部、キロで買うんですよ、ここは」

アンマンで買うよりも1割から2割安く売られているようです。

パレスチナ難民1世のおばあさん2人に会いに向かいました。

温かく迎え入れてくれた2人は、国境を渡った日のことを鮮明に語ってくれました。

パレスチナ難民1世
「1948年にイギリスが逃げたその日の夜にイスラエル軍が来ました。そして、次の日にはイスラエル軍が『逃げたい人は逃げろ』と言いました。イスラエル軍が追ってくると思って、走って逃げました。これまでも紛争で多くの人が殺されていたので、できる限り早く安全なヨルダンへ行きたかった」

代々、家族に伝えるという文化が根付いているものの、難民1世の証言を残さなくてはいけないという動きもあるそうです。

キャンプから歩いて3分ほどのところに難民のためのクリニックがあります。

1階はガザ、2階はエルサレム、3階はパレスチナ難民とフロアごとに分けられています。糖尿病・生活習慣病・ワクチン接種など、包括的なケアを行っています。

国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA) 清田明宏 医師
「ここにいる彼らもパレスチナ難民なんですよ。2人とも難民だよね?」

クリニックの医師
「はい」

― どうして、わざわざヨルダンまで来たの?
「ほかに選択肢はないと思う。

クリニック院長
「当時のパレスチナ人は、ヨルダン・シリア・レバノンへ命からがら逃げました。今のウクライナのように。だから、ぼくらの父親は平和を求めてヨルダンまで来たんです。妻や子供の心配もあっただろうから。わたしたちはいつか平和が訪れるときを信じています」

清田明宏 医師
「『故郷はどこですか』と聞いたら、どこと答えますか?」

医師たち
「パレスチナ」「パレスチナ。これは絶対に変わらない」

ヨルダンの人たちにとって ”平和” とは学ぶものではなく、暮らしの中で切に願っているもの…。わたしはそう感じました。

その思いをヨルダン国内でも共有するものとして、広島のお好み焼きに注目したのが、駐日ヨルダン大使です。

駐日ヨルダン大使 リーナ・アンナ―ブさん
「音楽が世界共通であるというように食べ物も世界共通です。もし、食べ物が歴史を語ってくれるのなら、伝えるのにこれほどいい方法はないですね」

原爆で何もなくなった広島で、わずかな食材を使って生まれたお好み焼き…。街の復興の歩みとともに今の形になったお好み焼きの歴史に、アンナーブ大使は強く心を動かされたのです。

駐日ヨルダン大使 リーナ・アンナ―ブさん
「ヨルダンの人たちは、広島で何が起こったのか、その中をどう勇敢に生き抜いたかを聞くべきだと思うんです」

「市居さんの作るお好み焼きによって、わたしたちは交流し、そして、歴史についても考えることができるでしょう」

大使の依頼を受けて、ヨルダンに向かったのが、広島市にあるお好み焼き店の店主・市居馨さんです。

この日は、現地の料理学校で講師を務めました。

いっちゃん 店主 市居馨さん(68)
「お好み焼きが進化していくのと、広島が復興していくのと、そのときのパワーになったのが、今のお好み焼き。そのお好み焼きでみんな、がんばって今のすばらしい広島になる」

生徒からは質問も…。

ヨルダンの料理学校 生徒
「お好み焼きはどのようにして生まれたの?」

市居馨さん
「原爆の後、何にもなくなった。占領軍から支給されたものがフラワー(小麦粉)。小麦粉を薄く引いて、グリーンオニオンはあったから、それを入れて。それではお腹いっぱいにならないから、入れたのがキャベツ。そういうものになって、おなか、いっぱいになるように」

ヨルダンの生徒たちもメモを取りながら熱心に聞いていました。

ヨルダンの生徒たち
「悲しい歴史があっても、お好み焼きが進化して、今の形になったということは、日本を前向きにする食べ物だったんでしょうね」

「原爆が投下された歴史はとても悲しいです。それと同時にお好み焼きの歴史を思い出すことで、どんなことが起きても、強く希望を持たねばという力が湧いてくるものだと思いました」

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