魚雷を受け沈没した対馬丸。家族11人中、生還したのは4歳の私と17歳の姉の2人だけ。抱きかかえてくれた父は、救助船に私を託し海に沈んだ〈証言 語り継ぐ戦争〉

遺族らの「対馬丸記念会」理事長の高良政勝さん=那覇市若狭1丁目

■高良政勝さん(82)那覇市安里

 那覇市牧志の実家は乳牛を飼い、搾乳して売っていた。戦局の悪化に伴い、早い時期に疎開するつもりだったが、牛の買い手が付かずできなかった。鹿児島市の鹿児島農林専門学校で獣医師になるために学んでいた当時19歳の兄・政弘を除き、両親ときょうだいの計11人で1944年8月21日、対馬丸に乗り込んだ。

 当時4歳。断片的な記憶しかない。海面から甲板までの高さが10メートルほどの大きな船に乗る際、タラップか、縄ばしごかを登った時はとても怖かった。もともと貨物船で窓がなかった。

 22日深夜、米軍の魚雷攻撃を受けて対馬丸が撃沈。荒れた海に放り出された。目や鼻に容赦なく海水が入り、とても痛かった。

 いかだにつかまって漂流し、3日目の24日に救助された。遭難者を発見した長崎県大村基地の航空機から知らせを受けた船だったと思う。魚に背中を食われ、背骨が見えていた。周りに人がいた覚えがなく「一人でよく頑張った」と思っていたが、父に後ろから抱きかかえられていたらしい。

 兄が船のボーイに聞いたところ、父が私を引き渡した後、いかだの縄が切れたという。だが私の分だけ軽くなったはずで、縄が切れたとは考えにくい。父は私をずっと抱き、疲労の極限だったに違いない。私を預けると「勝ちゃんはもう大丈夫だ」と安心し、力尽きて手を離して沈んでしまったのではないかと思う。

 当時17歳の姉・千代はしょうゆだるか何かにしがみつき、一夜を明かした。23日午後遅く、鹿児島の山川港の漁船に助けられた。

 兄は24日、県庁からの通知で姉がいる旅館に向かった。「救助された人の身なりはめちゃくちゃで、すだれを着ているよう。生き地獄だった」と話していた。

 兄は翌25日も救助船が着くと聞き、鹿児島の港で午前5時から待った。前夜、私の夢ばかり見たらしい。同9時ごろ、ようやく船が到着した。ボーイに抱えられた裸の私を見つけ、「助かってくれてありがとう」と泣きながら駆け寄ってきた。私も「兄さん」と叫び、2人で泣いた。

 兄の手紙で事情を知った沖縄の祖父母が「孫を放っておけない」と間もなく鹿児島に来て、姉や親戚と大分県の寺に疎開した。食料がなく、田んぼのタニシを煮て食べた。こってりした味でおいしかった。

 那覇には戦後戻った。ある日、叔母が尋ねてきた。母とそっくりで見た瞬間、「まんま(お母さん)、生きてるさ。帰ってきた」と驚いた。母の妹と分かり、とてもがっかりした。

 兄は獣医師として、焦土と化した沖縄で畜産業の復興に尽くした。両親亡き後、一家の大黒柱だった。おかげでひもじい思いをしなかった。感謝している。

 私は遺族らでつくる「対馬丸記念会」の理事長を務める。「対馬丸記念館」の建設費こそ国が負担したが、管理や運営を記念会に任せている。国、県の補助金だけではやっていけない。国策で本土に送り出され、あれほど多くの子どもが犠牲になったのに、国内外の人の寄付で成り立っているとはおかしな話だ。

 記念館は404人分の遺影、ランドセルや文具といった遺品を展示し、船内の様子も再現する。子どもを主体に戦争の悲惨さや平和の尊さを訴える点で日本に類のない施設と思う。ぜひとも未来永劫(えいごう)残していきたい。

■対馬丸事件 1944年8月22日午後10時12分ごろ、十島村悪石島の北西約10キロ沖合で、学童疎開船「対馬丸」(6754トン)が米潜水艦ボーフィン号から魚雷を受け、約10分後の23分ごろに沈没した。対馬丸は同21日午後6時35分、5隻の船団で那覇港を出て長崎へ向かっていた。14年英国製の老朽船で航行速度が遅く、標的となった。対馬丸記念館(那覇市)によると、1788人(2005年7月27日現在)が乗船し、犠牲者は学童784人を含む1484人(17年8月22日現在)、生存者280人(同)とされる。

(2022年11月19日付紙面掲載)

米潜水艦の魚雷を受け沈没した対馬丸(日本郵船歴史博物館所蔵)

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