幼心に刻み込まれた不条理さ 橋本徹也さん(86) 「暴力で征服は間違い」

「戦争は全ていかん。暴力で征服するやり方は間違い」と語る橋本さん=島原市下折橋町

 「こんなことをしている日本が勝つもんか」-。戦時中の1940年代前半ごろ、現在の長崎県立島原農業高(島原市下折橋町)付近に特設飛行場を整備するため、旧日本軍の分隊が近くに駐留していた。当時、低学年だったため、杉谷地区の第四国民学校折橋分教場に通っていた。
 ある日、軍人の慰労会が分教場であり、窓越しに眺めていた。「日清戦争カッチ、カチ。日露戦争カッチ、カチ。大東亜戦争…(勝利は)分からん」。演芸を促された初老の男性がこう歌い、戦争への疑問を正直に口にした。
 「神国日本が負けるものか」。子どもながらに不穏な空気を感じていたら、若い分隊士が激高し、初老の男性を何度も殴りつけた。「正しいことを正しいと、思ったことを思った通り正直に言えないのはおかしい」。戦争の不条理さが幼心に刻み込まれた。
 戦況が刻々と悪化し、「一億玉砕」が叫ばれる中、学校の朝礼でも(昭和)天皇がいる東の方角に向かって、腰を直角に曲げて最敬礼した。校長の指示に従いながら「何でせんばと」と不思議に思った。

馬の銅像の代わりに台座に据えられた碑=島原市湊道1丁目

 45年8月15日、終戦を告げる玉音放送は聞いたが、記憶はない。その後、担任が教卓に突っ伏して、涙を流していた姿だけが印象に残る。実家が農家だったため、幸いにもひもじい思いをすることはなかった。
 しかし、湊道1丁目の弁天山(理性院大師堂)に残る畳1枚分ほどの台座と細長い碑を見ると、複雑な思いが去来する。立派な馬の所有がステータスといわれた時代、品評会で日本一に輝いた祖父の愛馬の功績をたたえる馬の銅像があったからだ。43年ごろ、金属供出で「鉄砲の弾になった」と聞かされた。碑は銅像の代わりに据えられた。「馬好きだったじいさんも残念だったはず。戦争がなければ、銅像は今も残っていたはず」
 戦後、県内で小学教諭になり、子どもたちに戦争の愚かさと平和のありがたみを伝えてきた。しかし、ロシアのウクライナ侵攻など世界では今なお争いが続く。「戦争は全ていかん。暴力で征服するやり方は間違い。平和憲法を持つ日本だからこそ、声を大にして国連憲章の趣旨を訴えるべきだ」。戦時下の恐ろしさを知る一人として、教育の重要性をあらためて痛感している。


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