31歳谷口、夢見た舞台へ サッカーW杯初選出 「熊本のため」…原動力に大きく成長、家族や恩師が期待

 ◇たにぐち・しょうご 1991年、熊本市東区出身。筑波大時代に2大会連続でユニバーシアード日本代表入りし、2年時の2011年は金メダルに貢献。14年のプロ入り以来、J1川崎一筋。リーグ戦289試合、20得点。日本代表では14試合に出場。

 小学生からの夢を31歳で一つかなえた。サッカーワールドカップ(W杯)カタール大会の日本代表に選ばれた熊本市出身のDF谷口彰悟(J1川崎、大津高出)を大きく成長させたのは地道な練習と古里への思い。長嶺小学校の文集に「日本だいひょうになってワールドカップで優勝したい」と記した。23日は日本の初戦。家族や恩師の期待を背に、一歩を踏み出す。

 幼稚園でサッカーを始め、小4からクラブチーム「熊本ユナイテッドSC」の1期生として中学生まで過ごした。高校では毎朝4時半に起き、自転車とJRを乗り継いで登校。早朝から自主練習に取り組んだ。体の線が細かったため、朝練後におにぎり二つ、昼には大好きな豚肉のしょうが焼き入りの母春江さん(62)特製弁当、放課後の練習前に菓子パンを食べて、たくましくなった。

 主将だった3年時には中盤の要のボランチとして攻守を支え、全国高校総体4強入り。現在も大津高総監督を務める恩師の平岡和徳さん(57)は「(選手が提出する)ノートの最後に必ず『もっとうまくなりたい』と書いていた。妥協せず、地道な練習を続けられる才能があった」と話す。

 筑波大を経て2014年にJ1川崎に入りし、いきなりリーグ戦30試合に出場。2年目の15年に初めて日本代表に招集された。

小学校時代の谷口彰悟(両親提供)

 16年4月の熊本地震では、両親と祖母が暮らしていた熊本市東区の実家も大規模半壊した。3年目のリーグ戦途中だった。1カ月後の帰省時、実家だけでなく、ブルーシートに覆われた古里の惨状に心を痛めた。被害の大きかった益城町などで支援物資を配って回った。1年後の17年4月14日。自身のブログに思いをつづった。

 「川崎で活躍している姿や結果を届けて、熊本のみんなで喜んでもらう。一瞬でもいいから震災のつらさを忘れてもらう。それがプロとして一番にやるべきことだと思ってます!」

 言葉通りに、17年は全試合にフル出場し、J1優勝に貢献。クラブ史上初のタイトルだった。J1連続出場記録(GKを除く)は19年途中まで継続し、歴代2位の155試合。20年から「常勝川崎」の主将を務め、今季まで3年連続でベストイレブンとなった。日本屈指のDFに成長し、代表からも再び声がかかるようになった。父の登志夫さん(68)は「熊本のためにという気持ちが原動力になった。本人は決して口にしないが、相当の努力をしたんだと思う」と語る。

 後輩思いの一面もある。一学年下の幼なじみで、プロまでずっとチームメートの車屋紳太郎選手とともに大津高にユニホームや部員全員分の約200足のスパイクを贈ったこともある。母校が全国高校選手権に出場する時は必ず練習場へ激励に訪れる。

 「年齢的に選ばれるのは厳しいかもしれないと思っていた。一つのミスが失点につながる難しいポジションだけど、笑顔で帰って来られるように悔いなくプレーしてほしい」。両親はカタールの地で「夢の舞台」に臨む息子の勇姿を応援する。(後藤幸樹)

谷口彰悟が着用したユニホームの前で「悔いなく自分の役割を果たしてほしい」と願う父登志夫さん(右)と母春江さん=19日、熊本市東区

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