新大工町ファンスクエア誕生・『長崎玉屋』 地域と時代に合わせ変化 「役に立ちたい」建て替え復活

旧長崎玉屋の開店に列をつくる人々=長崎市新大工町(1969年5月23日撮影)

 百貨店「長崎玉屋」が長崎市の新大工町商店街の一角に開店したのは1969年5月。佐世保市を本拠地とする佐世保玉屋が「岡政」「浜屋」に続く第3勢力として進出。地上7階、地下1階。売り場面積約8千平方メートルは当時、市内で最大規模だった。
 「ワッと店内になだれ込む主婦たちには『押さないで…』の制止のマイクも聞こえない」。当時の長崎新聞は開店時の盛況ぶりをこう伝えた。それ以前から地元で営業してきた鮮魚店や精肉店などの「新大工町市場」が1階に入居。記事に登場する玉屋幹部は「エプロンがけの市場客がそのままデパートの客になる」と胸を張っていた。

開業セレモニーには多くの市民が集まった=19日、長崎市、新大工町ファンスクエア

 同町商店街振興組合の古賀重朗理事長は「玉屋があったから商店街がグレードアップした」と振り返る。屋上には遊具広場もあり、「母に連れられてよく行った」(60代女性)と住民の愛着も深かった。
 だが人口減少や不況、消費行動の変化といった荒波が押し寄せる。経済産業省によると、全国の百貨店売り上げは90年代の9兆円をピークに2010年までに3割以上減少。市内では00年以降、アミュプラザ長崎など競合する大型商業施設が相次ぎ開業し、11年には岡政の流れをくむ博多大丸長崎店が閉店した。
 長崎玉屋も、売り場を縮小して商品構成を見直すなどてこ入れを図ったが、ビル老朽化という事情も重なった。「店と同い年なので思い入れがあり、閉めるのはつらかった」。佐世保玉屋の田中丸弘子社長(53)は、祖父善三郎氏(故人)の代から45年続いた長崎での歴史に幕を下ろした日を思い返す。
 だが、その灯を消すことはなかった。「新しい形になって地域の皆さんの役に立ちたい」と現地建て替えを決断し、地権者でつくる再開発組合の理事長に就いた。9年後、商業施設とマンションの複合施設「新大工町ファンスクエア」として玉屋は復活を果たす。
 地上26階建ての2階に入居し、規模は往時に遠く及ばず、業態もがらりと変わった。「最初は『これが玉屋?』と思われるかもしれない」と田中丸氏。だが「百貨店らしさにこだわるのではなく、地域と時代に合わせて変化し続ける」ことを模索した結果だった。
 県内初出店を含む11のテナントを展開し、新しい食とライフスタイルを発信する。食にこだわるのは、江戸時代は旧長崎街道の起点として栄え、市民の食卓を支えてきた商店街の歴史を意識したからだ。
 韓国からの輸入食品を豊富にそろえ、中国の本格点心を楽しめる。有名シェフによる料理教室やバイヤーから直接話を聞けるワイン講習会も企画。「“本物”に触れられる。いつも新しい楽しさを発見できる」場所を目指した。
 19日の開業日、田中丸氏は、かつての常連や子ども連れの客らを笑顔で出迎えた。「これから“新生玉屋”で頑張りたい」

 長らく住民の暮らしを支え「ふだん着で行けるまち」として親しまれた長崎市新大工町商店街。その「にぎわい」の拠点は勢いを失い途絶えかけたが、進化して戻ってきた。変わりゆく街の様子に目を凝らした。


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