若手を鍛える「合宿」のススメ

上昌広(医療ガバナンス研究所理事長)

「上昌広と福島県浜通り便り」

【まとめ】

・医学生や若手医師の中には「将来が不安」と言う人が多い。

・医局や大学のクラブL LLC OB会は、コロナ禍で活動を停止しており、世代を超えた付き合いは難しい。

・若者が将来への不安を解消するには、様々な「成功例」を知ること。世代や職業を異にする人々が集い、語り合う「合宿」をお薦めしたい。

若者を鍛えるには「合宿」して、酒を飲むのがいい。長時間、一緒に過ごすことで、仲良くなり、お互いに本音を言うからだ。相互理解が進む。

我々のグループが、初めての合宿を企画したのは2005年だ。その年、東京大学医科学研究所に研究室を立ち上げ、初めてインターンの学生を受け入れた。我々に「合宿」の経験はなく、ノウハウは客員研究員を務めていただいた鈴木寛・参議院議員(当時、現東京大学・慶應義塾大学教授)に教えてもらった。彼は経産官僚時代、多くの若者と「合宿」し、指導した。その中からは、川邊健太郎・Zホールディングス最高経営責任者など、多くの逸材が育っている。この時は、彼が保有する蓼科の別荘に、鈴木氏や若者と共に泊まり込み、深夜まで語り合った(写真1)。

写真1)蓼科での合宿の光景。右から二人目が鈴木寛氏。2005年4月

当時、合宿に参加した学生の中には、坪倉正治・福島県立医科大学教授や清山知憲・宮崎市長たちがいた。

これは得難い経験だった。「若者」が何を考えているかわかるからだ。生い立ちや家族関係を知れば、彼らの内在的価値観もわかってくる。そうなれば、これに沿うように指導すればいい。これ以降、我々は事あるごとに若者と「合宿」することにしている。

2011年の東日本大震災の時も、相馬市内に合宿所を設けた。管理運営を担った星槎グループにちなみ、「星槎寮」と呼ばれた。ボランティアで現地に入った人々、地元の人々が集い、毎晩のように意見を交換した。写真は2012年7月のある夜の光景だ。この夜は、地元の福島県立相馬高校の高村泰広先生を初めとした3名の先生方がやってきて、地域の復興のためには、教育の底上げがもっとも大切だという話で意気投合した。

10月22~23日、岡山県高梁市の吹屋ふるさと村で「合宿」した。ベンガラ生産やその原料である緑著(ローハ)で巨大な富を築いた豪商たちが作り上げた中国山地の美しい町だ。近傍の広兼邸は、1977年、96年に公開された映画『八つ墓村』で田治見家のロケ地となったことで有名だ。

今回の「合宿」を企画してくれたのは、大学時代に在籍した剣道部の一年後輩で、代々木ゼミナールの国語講師をしている藤井健志君と、20年以上にわたり、我々のチームの一員として活動している岸友紀子医師だ。共に岡山出身、岸さんは現在、岡山で働いている。今回は長男の琥太朗君と共に参加した。

駆けつけた若者は、広島大学の医学生である吉村弘記君と溝上希さん、今春、帝京大学医学部を卒業し、香川県の三豊総合病院で初期研修を始めた遠藤通意君だ。これに、加治木島津家の次期当主で、現在、ナビタスクリニック新宿の事務長を務める島津久崇君が、途中から参加した。吉村君、溝上さんは勿論、遠藤君、島津君も大学生時代から、医療ガバナンス研究所で勉強している。

写真)「合宿」での議論の光景。机の周囲の人物、左から島津君、遠藤君、吉村君、溝上さん。後方のソファが藤井健志さん。

その夜の会話は、お互いの近況報告から始まり、自分の過去、将来への希望へと盛り上がった。そこに藤井君や岸さんが、自らの経験を交えて、アドバイスした。

藤井君は、学生時代に東大剣道部の2年後輩の女性と「出来ちゃった結婚」した。就職した三和銀行(現三菱UFJ銀行)も一年ほどで辞める。これでは奥さんは堪らない。様々な苦労を経験したそうだ。ただ、藤井君は頑張った。予備校の国語講師に転身し、現在は代ゼミの看板講師だ。低成長の予備校業界で立派に生き残っている。

奥さんも立派だ。三人の子供を育てる傍ら、航空自衛隊に勤務し、さらに現在は星槎大学博士課程で研究に従事している。

岸さんは、虎の門病院、国立がんセンター中央病院で、私と共に働いた血液内科医で、自治医科大学の花園豊教授の下で博士課程を修了後、東大医科研の我々の研究室のポスドクとして働いた。結婚、妊娠を契機に故郷の岡山に戻った。その後、離婚し、現在はひとり親として琥太朗君を育てながら、勤務医として働き、かつナビタスクリニックを経営する鉄医会の役員も務めている。

藤井君、岸さんが語る苦労談はリアルで、「人生なんとかなる」という言葉には説得力がある。

医学生や若手医師の中には「将来が不安」と言う人が多い。その理由の一つは、接触する「大人」が大学教員や医局員に限られ、藤井君や岸さんのように50代の先輩との出会いは限られているからだろう。どんな仕事であれ、50歳を超えると、組織を離れ、自力で生きなければならなくなる。ところが、彼らには、その具体像が見えない。SNSが発達した現在、大学や職場の枠を超えた同世代のネットワークは容易に形成できるが、世代を超えた付き合いは難しい。従来、このような役割を担ってきた医局や大学のクラブのOB会は、コロナ禍で活動を停止している。これは、若者にとって損失だ。藤井君や岸さんの話は、若者にとって新鮮だったようだ。

私を含め50代の3人と琥太朗君は11時を越えると寝てしまった。その後、若手4人は午前4時まで語り合ったという。

この時にリードしたのは島津君だ。彼は加治木島津家の出身だ。やがて鹿児島に戻り、父の跡を継がねばならない。そのために神主の資格も取得している。将来は、旧華族の一員、地元の精神的支柱として、東京と鹿児島を往復する生活を送ることになるだろう。

島津君は、吉村君と溝上さんに対し、「鹿児島で研修したらどう。応援する」と誘った。藤井君も岸さんの人生も、偶然のご縁が影響して、現在へと繋がった。茨城県牛久市生まれの遠藤君も、ご縁があって、香川県で初期研修を始め、苦労しながらも成長している。今回の「合宿」が、彼らにとって人生の転機になるかもしれない。藤井君、岸さん、島津君、遠藤君たちの人生を知ると、吉村君や溝上さんの「冒険」への心理的障壁は下がる。

多くの若者は将来に不安を抱えながらも、どうしていいか分からない。そのためには、様々な「成功例」を知ることだ。世代や職業を異にする人々が集い、深夜まで語り合う「合宿」をお薦めしたい。

トップ写真:星槎寮の光景 2012年7月

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