忘れ得ぬドーハの悲劇(下) 熱くなりきれないワールドカップ その3 

林信吾(作家・ジャーナリスト)

林信吾の「西方見聞録

【まとめ】

・試合の壊し方とはあと数分で勝てるならば、反則すれすれの時間稼ぎをしてでも、主審に試合終了の笛を吹かせること。

・世界のサッカーのトレンドについて、日本サッカー界はほとんど知識がなく、協会上層部が危機感を抱き初の外国人監督が招聘された。

・当時の日本代表の戦力と経験値を考えたならば、よくぞ最終戦、それもあと一歩のところまで本大会出場に近づいた、と評価できる。

「試合の作り方は教えたが、試合の壊し方まで教えることはできなかった」

前回述べたドーハの悲劇の後、ハンス・オフト監督が口にした反省の弁である。

試合の壊し方とは、勝っている試合をぶち壊すなどという意味では、無論ない。

あと数分で勝てる、という状況ならば、反則すれすれの時間稼ぎをしてでも(あまり露骨にやると、警告の上ロスタイムを取られ、逆効果となるが)、とにかく主審に試合終了の笛を吹かせてしまえ、といったほどの意味だろう。

私が前回、当時の日本代表の最大の弱点とは、国際舞台における経験値のなさだと述べたのは、オフト監督の弁が正しいと考えたからに他ならない。

マリウス・ヨハン・オフトは1947年オランダ・ロッテルダム生まれ。父親はアフリカ系の移民で、4男1女の末っ子として生まれた。日本では一般に「ハンス・オフト」と呼ばれるが、ハンスはヨハンの愛称である。

日本でも今では広く知られているが、オランダ王国は人口1800万にも満たない国でありながら、サッカーだけでなく柔道や空手など、武道・格闘技でも世界屈指の強豪である。

オフトも幼少期からサッカーと柔道を学んだが、次第にサッカーにのめり込むようになり、また非凡な才能を発揮して、高校卒業と同時に、小野伸二らも所属したことのある名門フェイエノールトと契約。プロとしてのキャリアをスタートさせた。その後19歳で徴兵されたが、軍代表チームにも招集され、退役後は23歳以下のオランダ代表に名を連ねるまでになる。

しかしながら20代後半になると度重なるケガに泣かされ、28歳で現役引退。ワールドカップには出場できずじまいであった。

その後は指導者の道を歩むが、ユース(当時は育成選手の別名。今では一般に20歳以下)のコーチ時代、日本高校選抜との親善試合などで、日本サッカー界と接点ができた。

1984年には、日本リーグ(実業団)2部のヤマハ発動機サッカー部(現ジュビロ磐田)のコーチに就任し、2ヶ月という短期契約の中で1部昇格と天皇杯優勝を果たしたことで、その手腕が注目されることとなった。

とりわけ、選手の特性を見抜き引き出す才能にかけては、非凡なものがあったらしい。嘘か本当か知らないが、代表監督に就任する直前、招集候補の顔写真を見ただけで誰がどのポジションで、どのようなプレーを得意とするかを当てて見せ、日本人スタッフを驚愕させたという逸話まである。

実際に彼は、やはり実業団2部のマツダSC(現サンフレッチェ広島)から、一人の若手を代表に招集した。無名の選手ゆえ他の代表候補たちは姓名の読み方さえ分からなかったという。「もり・ほいち」なのか「もりほ・はじめ」なのか。

読者ご賢察の通り、正しくは「もりやす・はじめ」であり、現在カタールの地で戦っている日本代表の森保一監督その人である。

彼は代表に招集されるや、守備的ミッドフィルダーとして先発に定着し、アルゼンチンとの親善試合の後、相手方の監督が、

「日本にはよいボランチがいる」

と評価した。守備的ミッドフィルダーの別名だが、もとはポルトガル語で車のハンドルのことで、相手の攻撃の連係を断つべく、右へ左へと忙しく動くことからの連想であるらしい。

いずれにせよ、これが報じられたことにより、ボランチという言葉が、日本のサッカー・ファンの間で広く知られるようになった。

言い換えれば、このこともまた当時の日本サッカー界の経験値の低さを証明している。ボランチという言葉さえ知られず(実を言えば、ヨーロッパではあまり一般的でないが)、当然ながら世界のサッカーのトレンドについて、ほとんど知識がなかった。このことに当時の協会上層部が危機感を抱いたからこそ、初の外国人監督が招聘されたのである。

実際問題として、Jリーグの開幕は1991年。それ以前の日本サッカーにはプロリーグなどなく、ワールドカップ本大会出場を目指して、カタールのドーハに乗り込んだ面々も、ほぼ全員、2年前まで実業団にいたわけだ。

当然ながら選手層の薄さも隠しようがないもので、左サイドバックを任されていた都並敏史が負傷・戦線離脱した際に、代わりの選手がなかなか見つからなかった。オフト監督も頭を抱えてしまい、

「街へ出て、あなたサッカーやってませんか?左サイドバックできませんか?と訊いて回りたいくらいだ」

と漏らしたという逸話まである。

結局、ボランチが本職である三浦泰年(知良の実兄)を起用するなどしたが、

「どうしてあの選手が(代表に)選ばれないんだ」

と毎度大騒ぎになる昨今から見れば、隔世の感がある。この問題は、次回見よう。

また、現在の日本代表は多くが海外のリーグでプレーしているが、この時点では、まともな海外経験があったのはブラジル出身のラモス瑠偉と、15歳でブラジルに渡り、かの地でプロ契約を勝ち取った経験のある三浦知良だけであった。

話をドーハの悲劇に戻して、そのラモス瑠偉は、後半残り時間が少なくなり、敵味方の運動量が落ちてきたのを見るや、ベンチに向かって、

「キタザワ!」

と大声で選手交代をリクエストした。

北沢豪は「日本のダイナモ」と呼ばれるほど圧倒的な運動量が自慢で、ラモス瑠偉と同じ攻撃的ミッドフィルダーであり、また当時のヴェルディ川崎で一緒にプレーしていた戦友でもある。韓国戦で活躍したが、出場停止明けの森保一が戻ったため、この試合はベンチに残されていた。

自分と北沢で中盤を支配できれば残り時間を逃げ切ることは十分に可能。そう判断したのだと、本人も後に述懐している。

しかしオフト監督は、北朝鮮と韓国を相手に連勝した「成功体験」にこだわった。

中山雅史に代えて武田修宏、長谷川健太に代えて福田正博と、フレッシュなフォワードを投入したのである。

この選手交代と、期待通りに前線でボールをキープできなかった武田のパフォーマンスが、後々まで批判の的となり、武田を「戦犯」と呼ぶ声まで聞かれたが、公平に見て、これは気の毒に過ぎる。中盤の選手を入れると、相手ディフェンダーの攻撃参加によって、耐える時間がより長く、より厳しくなるということも十分に考えられたからだ。ラモスの思惑通りセーフティーに勝てたかも知れないが、ロスタイムにもつれ込む前に同点にされた可能性もある。「たら、れば」は所詮「ないものねだり」と同義語なのである。

武田のパフォーマンスにせよ、あわよくば追加点を挙げて試合を決める、ということなのか、時間いっぱいキープして終了の笛を待てばよいのか、指示が徹底されていなかったことにも原因が求められる。

とどのつまり「試合の壊し方を知らなかった」のは、選手だけではなかったのだ。

私見ながら以上を要するに、あの日ドーハで起きたことは、悲劇と言うべきではないのかも知れない。当時の日本代表の戦力と経験値を考えたならば、よくぞ最終戦、それもあと一歩のところまで本大会出場に近づいた、と評価できるだろう。

事実ワールドカップ本大会出場の夢が一度は潰えたが、多くのサポーターは前を向いた。

個人的な思いを語らせていただけるなら、私自身も「悲劇」を目の当たりにしたことで、むしろ日本サッカーが世界一の座を手にするまで応援し続けよう、という決意を新たにしたものである。

問題はサッカー界の上層部が、ファンのこうした思いに応えられているのか、はなはだ疑問に思わざるを得ない、ということだ。次回その話を。

写真:カタールのドーハで開催されたワールドカップ予選にてハンス・オフト監督が選手のラモス瑠偉を慰める。

出典:Photo by Etsuo Hara/Getty Images

(つづく。その1その2

© 株式会社安倍宏行