「ヘイ、ベビー」。しゃがんで手招く大柄な米兵。怖がる私にチョコレートをくれた。敵対した国の人の優しさに驚いた〈証言 語り継ぐ戦争〉

終戦の数年前の正月、大阪に集まった花岡芳子さんの親戚。右端が兄・実文さん、左から2人目が菅野八重子さん。台湾から引き揚げた花岡さんは既に実母と沖永良部島へ移住していた(花岡さん提供)

■花岡芳子さん(86)鹿児島市西坂元町

 1936(昭和11)年4月に日本が統治していた台湾で生まれた。日中戦争が激化したため、4歳の頃に母の元を離れ、兄の実文がいた大阪へ移住した。叔母の菅野八重子が台湾まで迎えに来てくれた。私は親元を離れる際、台湾の基隆(キールン)港で泣きじゃくったと聞いた。数年して母も台湾から大阪に引き揚げてきて、6歳で母と沖永良部島の和泊町へ移住した。兄はそのまま大阪に残り、神戸の鉄工所で働いていた。

 45(昭和20)年7月、和泊国民学校3年生だった私は、いつものように母に見送られて友達と2人で登校していた。すると突然「カーンカーンカーン」と鐘が鳴るような飛行音が耳をつんざいた。ぱっと見上げるとピカピカ光る大きな機体が上空を覆っていた。初めて聞いた戦闘機のプロペラの回転音は今でも鮮明に覚えている。

 慌てて近くの砂浜に立ち並ぶアダンの木に身を隠した。普段かくれんぼを楽しんでいた場所だったのでとっさに体が動いたが、直後に機銃掃射があり、隠れた近くに着弾した。あまりの恐ろしさに身震いが止まらず、しばらく動けなかった。

 その日の夜は母と一緒に学校近くの防空壕(ごう)に避難した。10人ほどしか入らない小さな穴には、知り合いが暗い表情で身を寄せ合っていた。大人たちがカンテラの明かりに照らされ「いよいよ島にも戦火が迫ってきたか」と小声でつぶやく姿を見て、戦争が恐ろしいものだと実感した。

 その後和泊から5キロほど離れた内城(うちじろ)に疎開した。しばらくたって様子を見に戻ると、自分の家と周囲の5、6軒が吹き飛ばされていた。黒く焦げ、家財道具は跡形もなく燃やし尽くされたのを見て「ここにいたら、死んでいた」とぞっとした。

 それから間もなく終戦を迎えた。ラジオから天皇の声を聞いた住民らが「やっと終わった」と語り合う様子は、ほっとしているように見えた。しばらくすると上手々知名(うえてでちな)近くの長浜に米軍の船が着岸した。車両が次々と上陸する様子は、戦争に負けた現実を思い知らされた。

 米軍は私たちが大山と呼んでいた場所に兵舎を構えていた。終戦から1年たって遠足で兵舎の近くを訪れたとき、兵士が近づいてきた。大柄で、小学校ではいつも一番後ろに並んでいた私が、見上げるほどの大きさに思わず身構えた。

 兵士は怖がっているのが分かったのか、しゃがんで手招きながら「ヘイ、ベビー」とチョコレートをくれた。戦争で敵対した兵士たちがこんなに優しい人たちだったのかと驚いたのを記憶している。

(2022年11月25日付紙面掲載)

沖永良部島から本土への密航を振り返る花岡芳子さん=20日、鹿児島市西坂元町

© 株式会社南日本新聞社