山登りは準備が9割 さっぽろ単身日記 無意根山

山登りは準備が9割。

数少ない低山登山の経験から得た教訓である。

札幌第2の高峰、無意根山(1464メートル)の登山に向けて、準備に準備を重ねたつもりだった。

初雪の便りが届き始めた時期だったので、クローゼットの奥から冬の藻岩山で使用したチェーンスパイクを引っ張り出した。手袋、毛糸の帽子、スパッツ、レインコート、ストックも要るだろう。下山のたびに痛みが走る右膝用にはサポーターを巻いた。空沼岳で怖い経験をした「ガス欠」対策として、行動食のチョコレートもポケットに。頂上付近で息切れしないようにアミノ酸のサプリメントも加えた。樽前・風不死の二の舞にならないよう、足指の爪もちゃんと切った。水もお昼用のおにぎりももちろんリュックに収まっている。

よし、完璧だ。

無意根山の登山口は、定山渓から中山峠に向かう国道230号線から伸びた林道沿いにある。JR札幌駅近くのマンションから車で1時間ほどだ。

午前6時にマンションを出発。周囲はまだ暗い。前夜に雨か雪が降った形跡があるが、日中はなんとか持ちそうだ。

「山の上は雪かも知れないですね」

運転席のKさん(空沼岳、樽前・風不死のKさんとは別のKさんです)とそんな話をしながら、朝焼けが美しい空を横目に、ほぼ貸し切り状態の230号線を気持ちよく走行していた。

重大なミスに気づいたのは、そんなときだった。

携帯電話を忘れた。

必要なものをリュックやレインコートのポケットに詰め込んだあと、最後にスマホを胸ポケットに入れるつもりだった。そのスマホが胸ポケットにない。部屋に忘れてきたに違いなかった。

さあ、どうしよう。

もうすぐ定山渓だ。いまから引き返したら確実に1時間はロスする。

あれだけ準備したのに、よりによってスマホを忘れるとは。

自分の間抜けさにつくづく情けなくなるが、いまさら恨んでも仕方ない。

このまま強行するか。

予定通り登山できたとしたら、自宅に戻るのは夕方になるだろう。

休日とはいえ、日中まるまる連絡が取れない状態になってしまう。

頭をよぎったのは、新潟の田舎にひとりで暮らす母親のことだった。

警備会社の見守りサービスを契約していて、緊急連絡先を私の携帯電話にしていた。

何かあったら気づくのが遅れてしまう。

万が一のことではあるが、こういうときに限って起こるということもある。

やっぱり、引き返そう。

思い切ってKさんに打ち明けた。

「分かりました。でも、無意根山も電波が届かないですよ」

そうなのか。

だったら、わざわざ取りに戻っても、あまり意味がないか。

何か起きても山にいたら携帯は使えないし。

幸いKさんは職場の同僚なので、仕事上の緊急連絡はKさんにも入るはずだ。

スマホはカメラを兼用していたが、写真もKさんにお願いすればいい。

よし、行こう。

いま振り返ると、このときの私は典型的な「正常化バイアス」の心理状態に陥っていた。

「正常化バイアス」とは心理学用語で、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりする認知の特性のこと。

とはいえ、不安がまったく消えた訳ではない。

「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせているだけで、心の奥にトゲのようなものが刺さった状態であることには変わりなかった。

そんな後ろ髪を引かれる思いで臨んだ無意根山は、予想通り雪に包まれていた。

(続く)

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