連載小説=自分史「たんぽぽ」=黒木 慧=第83話

 また、小久保さんと悟の関係が発展して、ブラジルのオランブラの菊苗を継続的に日本に送る話しがすすみ、小久保さんが来伯して日本への輸出が始まったのである。その後も毎年五月ごろ、品質確認などの話し合いにやってくる様になった。その上に、おまけがついた。自分の娘、泉ちゃんと長男の恭洋君(二〇〇〇年に来伯)、また、小久保農場で研修した中園君と谷川君(大分)が数ヶ月、我が家で研修するほどの関係になった。

一九九一年
 一九八二年に始まった宮崎県農業青年ブラジル研修制度で、毎年一月十日頃に宮崎から二人の農業青年がブラジルにやって来る様になって、私も悟と恵美が宮崎でお世話になったその恩をいつも感じていたこともあり、宮崎県人会としても何かお役に立ちたいと考えていた。この年には石田君と外山君がやって来たので、研修中の旅行に荒木さんと私が引率して、イグアスとパラグアイを案内した。そして荒木さんと私がこれら研修生の世話係となった。九四年に荒木さんがこの係を止めたので、私がその責任者として宮崎県庁と県人会の間を取り持って二十年、若い世代に引き継ごうと頑張っているのである。
・四月一日 ジア・デ・メンチーラ(エイプリル・フール)で嘘を言っても良い日だそうだけど、この日は嘘ではなく、新しい家を建てるために、古い倉庫を取り壊し始めた日である。この頃には夢が一杯あった。花の仕事でも、花の会でも、県人会でも、やる気充分であった。
・七月十四日 バウルの天理教伝道庁四〇周年式典が開催され、私達も一泊で参列した。
・七月七日 恵美が東京の巳知治の仕事から一年ぶりに帰ってきた。
・七月二十三日 私が音頭を取り、花の生産者をバス一台で南伯のポルト・アレーグレなど、花の販売情況視察旅行を行った。いつも花を買ってくれるその業者の案内で私共の花がどの様に売られているのか視察した。夜は本場のシュラスコをごちそうになった。
・八月三十一日、悟が日本での一ヵ年の花の研修を終えて帰伯した。この日より花の仕事は私の替わりに悟が全責任を持つ様になった。
・九月二十日から十月十一日までの二十一日間、ヨーロッパ花卉視察旅行に参加した。この旅行記は別紙にも書いたが、ビデオテープに収録して保存している。この旅はORTEC社の八橋ルイス君などが企画、花の会中央会とタイアップして、モジのジャバツール旅行社のお世話で実現したものである。

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