野生動物、人より多いのでは…荒廃する山「誰が守るのか」 秩父の91歳ハンターが引退 山の未来に憂い

「狩猟」の今昔を語る磯田剛さん。2年前、狩猟歴70周年記念で新調したハンターベストの右胸には独自に「地球鳥獣調整士」と入れた=埼玉県秩父市の自宅

 埼玉県内で今秋の狩猟が解禁された15日を前に、狩猟歴72年のベテランハンターが体力の衰えを理由に、ひっそりと猟銃を置いた。秩父市上影森の磯田剛さん(91)。食料難の時代、獲物は貴重な「山の恵み」だった。やがて林業の衰退とともに山は荒廃し、生きていくための狩猟は、田畑を荒らす害獣駆除の意味合いが強くなった。県内の猟銃を扱う狩猟者は約2900人。高齢化により減り続け、磯田さんは「山は誰が守るのか…」と先行きを憂う。

 「昔は猟が終わると皆で酒を良く飲んだ。何とも楽しかったなぁ」

 磯田さんは、旧大滝村の出身。子どもの頃から、父や兄たちの狩猟に同行し、弁当持ちやキジ、ヤマドリ、ウサギなどの獲物の回収などを手伝った。戦時中で家族の腹を満たす「貴重な食料」だった。終戦後の1950(昭和25)年、20歳の時に憧れの狩猟免許を取得。三峰や浜平、大血川などが猟場だった。当時の奥秩父猟友会には30人余りの猟師がいて、兄の建設会社で働きながら腕を競った。

 食料難の時代、山に「焼き畑」を作って、ソバや小豆などを栽培し、食いつないだ。その収穫前が鳥撃ちの絶好の機会だった。「ソバや小豆を狙ってくるヤマドリやコジュウケイ、キジを狙い撃った。持ちきれないほど捕れた」。肉は貴重で、正月や親戚が集まる席に出すヤマドリ鍋は「最高のおもてなし料理だった」と振り返る。

 米進駐軍の兵士に狩猟ガイドを頼まれたこともあった。数人でジープで乗付け、身振り手振りで案内した。「5、6回あったかな。彼らと付き合い、今は珍しくないが、捕った鳥肉で作る『唐揚げ』を教わった。いつの間にか、わが家の定番料理になった」

 その後、県の土木事務所の職員になり、大滝から離れた。職場には「ハンター会」があった。猟期の週末には十数人の仲間が集まり、秩父や大滝の山に入った。鳥撃ちが専門。今では考えられないほど、たくさん捕れた。大物はシカ。しかも雲取の下とか奥山に入らないといなかった。イノシシはほとんど見かけなかった。

 都市化が急速に進んだ昭和50年代後半ごろから、シカやイノシシが山里に出没するようになった。時には街中にも。農作物への食害が社会問題化した。熊も姿を現すようになった。猟期以外にも一年中、「有害鳥獣駆除」ということで猟をしてきた。

 「昔は山にも餌があった。木の伐採や炭焼き、山畑もあって人の姿があったが、林業がさびれ、山が荒れてしまった。大型の鳥たちも行き場がなくなり、ウサギの姿も消えた。山里も人が減り、活力がなくなり、寂しくなった」

 若い頃は県猟友会主催の射撃競技会A級で優勝し、県公安委員会のライフル銃射撃指導員も務めた。2年前、90歳になったのを機にハンターベストを新調。右胸に「地球鳥獣調整士 七十周年記念」と入れた。

 「まだやれるよ」。そう言ってくれる仲間もいるが、足腰の衰えを感じ、引退を決めた。ただ、山の今後を思うと、心配は尽きない。「今は人より、シカやイノシシの方が多いのではないか。(環境にも大切な)山は誰が守るのか…」

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