米軍統治下の沖永良部島から本土へ。小さな密航船はぎゅうぎゅうだった。鹿児島湾まであと少し…海保の船に見つかった。〈証言 語り継ぐ戦争〉

沖永良部島から本土への密航を振り返る花岡芳子さん=鹿児島市西坂元町

■花岡芳子さん(86)鹿児島市西坂元町

 15歳になった1951(昭和26)年4月、母が病気で亡くなった。父も幼少期に他界していた。終戦後、米軍統治下に置かれていた沖永良部島から本土へ密航することを決意した。神戸の鉄工所勤務から志願兵として加計呂麻島に派遣され、復員した兄の実文と2人和泊町に残された私たちは島内に身寄りがなく、鹿児島市にいる叔母を頼るしかなかった。

 隣町の知名港には本土へ渡るための密航船がたくさん停泊し、島を出る人が日に日に増えていた。無事にたどり着く人もいれば、上陸を許さない海上保安庁の船に捕まり島に追い返される人もいた。危険が伴う航海だが、順番待ちになるほど密航を希望する人は多かった。それほど“日本”に帰りたかったのだろう。

 決意して数カ月後の夏、身元引受人の叔母・菅野八重子がやってきた。本土から島を訪れるのもまた、密航という方法でしか実現しなかった。当時は電話もなく、兄が文通でやりとりをするしかなかったため、叔母が無事に島に着くことを祈った。バッグ一つ程度に私物を抑え、黒砂糖や芋を隠し持って、わが家をあとにした。

 日が落ちてから港に移動。密航船は深夜に出発した。定員20人ほどの小さな漁船に空きがないほど人が乗っていた。鹿児島湾に近づいた数日後の夜、密航を見張っていた海保船に見つかった。すぐに周りを囲まれ、保安官が船に乗り込んで来た。大きな船に連行され、密航者のほとんどは甲板で一夜を過ごした。

 船の乗組員の中に叔母が鹿児島市の名山堀で営む飲食店の常連がいた。甲板の下の部屋を案内され、眠ることができた。暖かい寝床は長く続いた緊張を和らげたが、「島に帰されてしまうかも」という不安も芽生え、複雑な気持ちだった。

 本土に着くとすぐ尋問を受けた。「なぜ密航したのか」「島ではどんな生活だったのか」と問いただされた時は、「同じ日本人なのに、なんで責められるのだろう」と、自分がまるで罪を犯したかのように感じた。理由は分からないが、叔母が私の本籍を島から本土に変えていたので、おとがめなしだった。一方、島に籍を残したままだった兄は留置所に入れられたが、知り合いの職員がいたこともあってか、数日間で釈放された。2人とも島に強制送還されずに済んだのは本当に運が良かったと思う。

 戦争によって国が分断され、生活に困る難民はいまだに絶えない。かつての私のように、悲しく暗い夜や母国に帰れないつらい思いをする人が世界中からいなくなることを祈る。

終戦の数年前の正月、大阪に集まった花岡芳子さんの親戚。右端が兄・実文さん、左から2人目が菅野八重子さん。台湾から引き揚げた花岡さんは既に実母と沖永良部島へ移住していた(花岡さん提供)

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