
女子テニスの「WTAツアー」でトップ50位内に入った実績を持つ日本人8名が、その経験値をジュニア世代に還元するために立ち上げた一般社団法人『Japan Women's Tennis Top50 Club』(JWT50)。現在9名いるメンバーがリレー形式でキャリアの分岐点を明かすのがシリーズ『扉が開いた瞬間』だ。第2回は、元世界41位の森上亜希子氏が、自身のターニングポイントについて語ってくれた。
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一つの出会いが新たな出会いと縁を生み、やがて本人も予期せぬ地平へと導かれる現象を、人は“運命”と呼ぶのだろうか。
だとしたら森上亜希子にとって運命の起点は、小学生時代に師事したコーチとの出会いだったろう。小学6年生の時、森上は全国小学生選手権で日本の頂点に立つ。その時、コーチの青山祐司氏が森上に言ったのは、「僕が見られる範疇は超えている。一緒にコーチを探そう」だった。
金の卵を手にした時、果たしてどれほどの指導者が、そのような大局的英断を下せるだろう? 当の森上も、「それは難しいことで、今でもすごく感謝しています」と述懐する。
いずれにしても、「テニスが大好きで、ボールをクリーンに強打するのが楽しかった」という少女の運命の羅針盤は、この時、恐らくは本人も知らぬままに、世界を指すこととなった。
森上がラケットを手にしたのは、6歳の時。「最初は近所のテニススクールに通いながら、週末はレンタルコートで、家族みんなでテニスをやっていたんです」。始まりは、スポーツが好きな日本中の家庭によくある話だった。
最初の分岐点となったのは、「スクールだけでは物足りなくなり」、大阪府八尾市にある会員制のテニスクラブに通い始めたこと。前述の青山コーチと出会ったのも、このクラブだった。
小学6年生時の全国大会優勝を機に、青山コーチの導きで始まった新たなコーチ探し。結果的には幸運にも、森上は数か月で新たな師に巡り会えた。
「当時、宮城ナナさん(元シングルス51位、ダブルス12位)がITCテニススクールを拠点とされていて、そこにジョン・ハンキーという、ハリーホップマン・テニスクラブでコーチをされていた方がいたんです。もともと宮城さんのコーチで、ITCにヘッドハンティングされる形で日本に来たということでした。そのジョン・ハンキーが教え子のトライアウトをするというので、受けにいったらOKをもらえたんです」
こうして大阪の自宅から神戸市まで、「まあまあ遠い」距離を通う日々が始まった。秋から冬へと、季節が移ろう頃だった。
ハンキー氏の指導を受けるようになり、森上には技術面で、変えたものと変えなかったものがあるという。変えたのは、サーブ。
「当時の私は、いわゆる“パンケーキサーブ”で、身体が正面に向いた状態で打っていたんです。ジョンからはそれを直そうと言われたんですが、本当に大変で。でも試合でサーブを入れに行こうとすると、すごく怒られたんです。ほとんど怒ることはないコーチでしたが、そこは怒られた。『全部ダブルフォールトでもいいから、ちゃんと取り組んでいることをやれ』と」
変化のプロセスではどうしても、思うようにプレーできず勝てない日も続く。それはフラストレーションが溜まることだが、それ以上に「ジョンに理詰めで怒られる方が怖かった」と森上は回想した。
他方で変えなかったのは、両手で打つフォアハンド。
「中1の時に、片手にするかどうかすごく迷ったんです。でもジョンが『もっとトレーニングしてフットワークを鍛えたら良い。フォアが武器なのだから、その武器を捨てる必要ないでしょう』と言ってくれたんです。アメリカ人らしい、良いところを伸ばせば良いという発想でした」
コーチにとっての、変えるものと、変えなかったものの判断基準――それはあくまで、「今ではなく将来のため」という大局的視座。
「君は、プロになりたいんだよね? だったら今の戦績は関係ない、将来プロで勝てるテニスをちゃんと作ろう。今は負けても良い。やってきたことを出せる試合をしよう」
それが、森上がコーチから掛けられた言葉だった。
テニスの道を極めることに、迷いを抱かなかった中学生時代。そんな彼女の進路に大きな分岐点が訪れたのは、中学生最後の冬のことだ。
1995年1月――。関西圏を襲った“阪神・淡路大震災”に見舞われた町の景色は、森上の人生観にも影響を及ぼす。
「私が通っていたテニスクラブそのものに被害はなかったんですが、周囲は茫々と燃えていて。『私、テニスを続けて良いの? テニスをしている場合?』という葛藤もあって、結構悩んだんです。
コーチのジョンが住んでいた神戸の家も被害に遭ったので、当時、彼は私の家に住んでいました。彼自身も身の振り方を考えていた折りに、アメリカのアカデミーからヘッドハンティングで声が掛かったんですね。その時に『私もアメリカに行きたい! やっぱりテニスが続けたい。ジョンに教わりたい!』と思ったんです」
かくして森上は、ハイスクールも併設されたフロリダ州のアカデミーに留学する。娘が可愛い父は、大反対した。ただ母は、「やりたいことあるなら進んだらいいじゃない」と援護射撃をしてくれたという。父は最後まで、納得したとは言い難かったようだ。
それでも「セキュリティのしっかりした場所だしホストファミリーもとても素敵な方々」という母の報告を聞いて、安心はしたのだろう。1995年9月、森上は家族の下を離れてアメリカに渡った。
森上が拠点とした米国のアカデミーには当時、セバスチャン・グロージャンら有望な若手のみならず、若きコーチたちも野心をたぎらせていた。「日本での私はジュニアで結果を残していましたが、アメリカには私くらいの選手はゴロゴロいた」
そんな環境で力をつけた森上は、グランドスラムジュニアの常連にもなる。16歳の時に出場したウインブルドンJr.では、センターコートで行なわれた女子準決勝も観戦した。
コートに立つのは、時の絶対女王、ステフィ・グラフ。その女王に挑んだのは、切れ味鋭いライジングショットを武器とした、“ライジングサン”こと伊達公子である。
「当時、伊達さんとの面識はなかったですが、とにかく『すごい!』と思いました。私も、こんな場所で試合がしたいという思いが生まれたのは間違いないです」
この時に心に刻まれた衝撃と渇望は、1年後に森上を、ウインブルドンJr.ベスト4へと導いていく。さらにはこの結果により、ミキハウスがスポンサーに付き、18歳でプロ転向を果たした。
「正直、当時は大学進学を考えていたんです。でも、勉強はいつでもできるけれどプロに挑戦するのは今しかないかと思って、決意しました。ウインブルドンJr.のベスト4があったから、ミキハウスさんのお話もあったのだと思います」
このプロ転向の8年後に、森上は世界の41位に到達する。終盤はヒザのケガに苦しめられ、それでも限界まで走り切った、約13年間のプロキャリアだった。
一つの出会いが新たな出会いを生み、縁に導かれるように世界中を駆けた日々。その転換期には常に、真っすぐ目的地を指す意志を指標とした、森上自身の決断があった。
取材・文●内田暁