ノーベル賞 下村脩さん妻・明美さん死去 研究支え 二人三脚 受賞「GFP」発見にも貢献

ノーベル化学賞受賞後、佐世保市を訪れた下村脩さんと明美さん(2011年6月2日)

 2008年にノーベル化学賞を受賞し、18年に死去した下村脩さんの妻、明美さんが今年5月に米国で亡くなった。86歳だった。長崎市出身で長崎大薬学部卒の明美さんは研究助手としても脩さんを支え、脩さんが晩年体調を崩してからは看病に尽くした。

 かつて、脩さんと共に所属した米マサチューセッツ州のウッズホール海洋生物学研究所はホームページに、明美さんの生前の歩みを記した追悼文を掲載。「私たち生物学者にとって、下村脩が明美と一緒にいてくれたことはとても幸運なことだった」との元研究員の言葉を引き、明美さんの功績の大きさをたたえた。
 脩さんはワシントン州北西部の港町フライデーハーバーで、ノーベル賞受賞の功績となるオワンクラゲの発光物質を研究し、緑色蛍光タンパク質(GFP)を発見した。研究材料である大量のオワンクラゲは、明美さんや長男長女も手伝い家族総出で採集。後年、GFPなどの精製作業のほとんどは明美さんが担った。
 結婚したのは1960年8月。長崎大薬学部助手だった脩さんは渡米が決まり、パートナーを探していたところ、叔母から明美さんを紹介された。明美さんは同薬学部の卒業生で、その1年前に脩さんが担当した薬剤師資格試験の準備コースを受講し、顔を合わせていたという。
 明美さんの生家は、長崎市の老舗金物店「大久保金物」。36年2月、8人きょうだいの3番目として生まれた。9歳の時には長崎原爆に遭った。活水中から長崎西高、長崎大薬学部へと進んだ。
 明美さんの弟で大久保金物代表取締役の大久保雅史さん(82)は「姉はきちょうめんな性格で、数学、物理の成績がよかった。脩さんの研究を手伝うことが楽しく、努力のしがいもあったと思う」と回顧。脩さんが研究者間の人間関係で齟齬(そご)が生じた時もなだめるなどして、陰になり日なたになり脩さんをサポートしたという。
 脩さんは亡くなる数年前から病を患い、長崎市内で療養生活を送った。雅史さんは「看病は本当に大変だったが、姉は献身的に世話をしていた」と明かす。
 脩さんの葬儀などを終えた明美さんは2019年秋に渡米。マサチューセッツ州ファルマスの自宅を整理して日本に戻るつもりだったが、20年から新型コロナウイルスの感染が世界的に拡大。現地に足止めされる中、コロナに感染し、今年5月11日、入院先の病院で息を引き取った。
 コロナ禍でいまだ“帰国”はかなわず、遺骨は海外在住の長男の元にある。雅史さんら親族は7月末、脩さんの実家の菩提(ぼだい)寺がある雲仙市で家族葬を営み、異国の地で最期を迎えた明美さんをしのんだ。
 雅史さんは「姉は自分の一番好きな道を歩めたのではないか。まさに2人で一組の、脩さんと良いコンビだった」としみじみと語った。


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