近世から昭和にかけてのノスタルジーを感じる、玉島の町並みを巡ってみました(備中no町家deクラス、懐かしい未来 2022)

倉敷市玉島に行ったことがありますか。

玉島の中心街は、江戸時代の初期から発達した湊町

町並み保存地区をはじめとした古い町家や神社などに、当時の面影を感じ取ることができるのです。

商店街やまちのあちらこちらに、昭和の香りも漂います。

この記事では2022年11月23日に「備中no町家deクラス」のプログラムとして開催された「まち歩き玉島」のようすを紹介。

あいにくの雨模様のなか、近世から昭和にかけてのノスタルジーを胸に、しっとり気分でのどかな町を巡ってきました。

玉島のまちの成り立ち

そもそも「玉島」という地域が、どのようにできあがったのかを簡単に解説します。

万葉集が詠まれた奈良時代、現在の玉島には「玉のような小さな島」があったのだそうです

12世紀には、柏島に陣取った平氏と乙島の源氏とのあいだで、「水島合戦」と呼ばれる海上戦が繰り広げられました。

その後、江戸時代になって干拓が始まり、1659年に備中松山藩主の水谷氏が玉島新田村(玉島村)を開発します。

1665年には新田開発の安全を願って、羽黒神社が勧進されました。

阿賀崎新田村の堤防も1670年には完成し、現在の玉島の中心街が形づくられていきます。

「高瀬通し」と呼ばれる高瀬舟も通れる用水路が玉島湊から船穂町(一の口水門)まで開削され、高梁川を経由して備中松山藩とつながっていったのです。

まち歩き玉島

集合は新堀川緑地でした。

映画「とんび」のロケ地として有名になったドラム缶橋を渡り、通町商店街を抜けて水門跡が残る路地を進みます。

通町商店街

この港橋界隈は映画「ALWAYS 三丁目の夕日」のロケ地ということで、気分は昭和です。

西爽亭

まずは「西爽亭」に足を運びました。

西爽亭は江戸時代に備中松山藩領玉島村の庄屋を務めた柚木家の邸宅のうち、藩主の御座所だったところです。

当日は期間限定で「玉島の玉」の展示を見ることができました。

新田開発のための土を山からとりだしていたところ、「ふたつの玉」が掘り出されたのだそうです。

この話も玉島の由来のひとつとされています。

羽黒神社

羽黒神社は阿弥陀山と呼ばれる小さな丘に勧進され、玉島村と阿賀崎新田村の氏神様として崇められました。

境内社のひとつに熊田神社があり、幕末の「玉島事変」で自刃した熊田恰が祀られています。

「玉島事変」に関しては、西爽亭の記事で詳しく解説しています。

当時は一命を賭して騒動を収めた事例が少なくなかったとはいえ、やるせなさを禁じえません。

玉島のまちやひとびとを動乱から救った熊田恰に感謝し合掌しました。

清龍寺は羽黒神社の別当寺院です。

神仏習合は長年にわたる日本の慣習でした。

明治政府による神道の国教化政策により神社と寺院の分離が進められますが、隣りあわせがしっくりくる気がします。

新町通り

1670年に完成した堤防は「新町堤防」と呼ばれています。

阿弥陀山と柏島のあいだを閉め切ることで、阿賀崎新田の開発が可能になりました。

堤防上には新町通りが築かれ、それが現在の町並み保存地区です。

南面には蔵が、北面には問屋街が形成されたといいます。

南面の蔵のひとつでは、保存改修の計画があるそうです。

耐震を強化しつつ内装を改装し、マルシェも開けるような「土蔵の波止場」を2023年度中にも完成させたいとのこと。

楽しみに待ちましょう。

3時間のまち歩きの最後に、同じ新町通りの別の町家でコーヒーとケーキをいただいて解散しました。

こうした光景も町家ならではです。

おわりに

玉島の町がつくられて400年に満たないことは、少し意外な気がします。

しかし、そこには先人たちのさまざまな想いや努力の跡が、有形無形に残されていました

我々は歴史から多くのことを学ぶことができるのです。

だから歴史は風化させたくないと思いますし、無形だけでなく有形の歴史遺産もできるだけ残してほしいと思います。

町並みの保全に取り組んでいる玉島のかたがたに感謝です。

そしてこうした町々をめぐる機会になる「備中no町家deクラス」を、毎年開催している倉敷町家トラストさんにも感謝したいと思います。

きっと2023年も開催されると思いますので、皆さんも参加してみてはいかがでしょうか。

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