「寒く湿った地下室で──」 ウクライナ、奪還された街の生と喪失

戦闘のあいだ環境の悪い地下室で避難生活を送り、体調が悪化。MSFの診察を受けた © Hussein Amri/MSF

ウクライナでの戦争は、ドネツク州など同国東部に住む人びとにとって特に大きな打撃を与えている。何カ月もロシアの支配下にあった都市がウクライナ軍に奪還されるにつれ、多くの住民が医療や電気、水を利用できず厳しい状況に置かれていることが明らかになってきた。

病院も薬局も機能せず

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ドネツク州のリマンに向かう道には、「立ち入り禁止-地雷あり」という赤い看板が左右にずらりと並んでいる。道路には、ずたずたに引き裂かれた軍服やがれきが散らばり、砲撃で黒く焼け焦げた車が打ち捨てられている。少し行くと、かつて誰かの家にあった洗濯機とテレビが道の真ん中に転がっている。 4カ月にわたりロシア軍の支配下にあったリマンは、10月上旬にウクライナ軍に奪還された。激しい戦闘で、街の大部分は完全に破壊された。 2人の医師を含む国境なき医師団(MSF)のチームは、同市が奪還された1週間後の10月初旬にリマンに入り、ウクライナ非常事態庁の地方支部が使っていた建物で、この地域に残っている住民に基本的な医療と医薬品を無償で提供した。

診察を受けるために多くの住民が列を作った © Hussein Amri/MSF

住民はMSFのスタッフに「インスリンはありますか? 何か頭痛に効くものはありますか?」と尋ねてくる。リマン奪還の数カ月前から、病院や薬局は機能していなかったからだ。現在でも、再開したのは簡易診療所1カ所だけ。リマンにある2カ所の病院は甚大な被害を受け、専門医療は行えない。以前とは比べ物にならない医療態勢だが、リマンで活動する他の国際団体はほとんどない。 いまMSFは地元の自治体とともに、市内のレクリエーションセンターを基礎医療の行える診療所に改修している。毎日、現地の医師や看護師が住民の相談に乗り、基本的な医薬品を提供している。また、近隣のノボセリウカ、ルブツィ、ヤーツキウカ、ヤロバの各村で、約400人の診療を行った。 MSFの医師であるバレリア・レオノワはこう話す。「診察を受けに来る人の多くは、これまで医療を受けられないでいた慢性疾患の患者さんです。ほとんどの人に、興奮、不眠、いらだち、恐怖といったストレスの兆候が出ています」

「家族を置き去りにはできない」

リマンが奪還されて間もなくMSFの診察を受けに来た女性、アッラ(※)さんは、娘のことを心配していた。
「戦闘が続いている間は、寒くて湿った地下室に家族皆で避難しなくてはなりませんでした。そこで娘は体調を崩したのです」とアッラさんは話す。「激しい砲撃の後、ほとんどの住民がリマンを離れました。私たちの住む通りでは10軒の家が破壊されていて、次は我が家だろうと……」

地域の学校と図書館が破壊されたことを受けて、アッラさん一家は自宅から避難することを決めた。難しい決断だった。

「私たちには4人の子どもと70代の両親がいます。避難を呼びかける人は何度か来ましたが、8人全員を連れていってくれる人はいませんでした。私はある避難所のベッドが一つ空いていると持ちかけられましたが、両親と夫は行けないので、家族を置き去りにはできないと返事しました。その結果、ドニプロ、ノボモスコウスク、ハルキウ、ザポリージャなど、いろいろな場所を転々としました」

住民の診察をするMSFの医療スタッフ © Hussein Amri/MSF

残された高齢者、水や電気も止まり

4月以降、市内では水道や電気が止まっており、再開されるのは来年になる見込みだ。人びとは屋外で調理をし、まきや水を集めに出かける。昔はお茶を入れるのに1分もかからなかったが、いまは3時間かかることもあるという。

「料理をするために、小さな森からまきを運んでくるんです」

そう話すクラウディヤさんは84歳だ。1カ月以上、自宅の地下室に毛皮のコートと靴で横になって避難していた。毛布はあっても、床の冷たさを和らげるものはない。そのため、体調は悪化。クラウディヤさんは、歩くときは井戸に水を汲みに行く時でさえ、杖をついて行かなければならなくなった。

クラウディヤさん(84歳)。「近所には助けてくれる人もいなくて、数人の年寄りが残っているだけです」と話す  © Hussein Amri/MSF

疲れきった心

リマンにはかつて2万7000人が住んでいたが、いまではほんのわずかしか残っていない。

住民のバレンティナさん(※)は、96歳の隣人の女性の世話をした経験をこう話す。「お隣さんは耳が悪くて、爆発が起きると『お嬢さん、何が起きているの?』と聞いてくるのです。怖がらせたくなかったので、『雷ですよ』と答えていました」

ある日、隣の家の庭に砲弾が落ちた。バレンティナさんが駆け付けると、隣人の女性の顔はガラスで覆われていた。「その2週間後に亡くなりました。おそらく体が耐えられなかったのでしょう」

住民によりこの女性は墓地に埋葬された。だが、亡くなった人全員に同じことをできたわけではない。「木の下や道、庭に埋葬されただけの人も多かったんです。その後、墓地に人を埋葬することができるようになりました。遺体が掘り起こされ、いま再び埋葬されています」とバレンティナさんは状況を語る。

隣人を砲弾で失ったバレンティナさん © Hussein Amri/MSF

住民のマルハリタさん(※)は、これまでの出来事で人びとはショックを受け、ストレスを感じていると話す。彼女は他の多くの人たちと同様、本名や顔の記録は希望しなかった。ロシア兵が戻ってくるかもしれないというのがその理由であった。 「ここの人たちは、何カ月も電灯も通信手段もなく、地下室で暮らしていたんです。食料の供給が止まったこともありました」と、リマンで活動するMSFの医師の一人、アナスタシア・ボリソバは話す。「地下室での生活に良いことは何もありません。リマンの人びとの心は疲れきっています」 ※プライバシー保護のため仮名を使用しています。

住民の話を聞くMSFの医師 © Hussein Amri/MSF

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