笹子トンネル事故10年 「娘はなぜ犠牲に」、無念思い問い続け

玲さんの写真が並ぶ自宅で、「娘がこつぜんといなくなったというのが、すごく強かった」と語った邦夫さんと和代さん=兵庫県芦屋市

 公共インフラの老朽化に警鐘を鳴らした中央自動車道笹子トンネル事故の発生から10年。大切な家族を突然奪われたあの日以降、声を上げ続けてきた人がいる。その言葉から「命を守る安全な社会」を考える。

 あの日のことは生涯忘れない。2012年12月2日。午後6時ごろ、兵庫県芦屋市の松本邦夫さん(71)、和代さん(71)の元に一本の電話があった。「玲さんがトンネル内にいるという情報があります」。相手は山梨県警被害者支援室。朝からニュースで見ていた、山梨県の中央自動車道笹子トンネルの天井板崩落事故だという。

 「山梨のトンネル事故に? 東京に住んでいるはずの娘が? 何かの間違いだ、信じられない、というのが最初にあって…」。邦夫さんは振り返る。

 トンネル内で約140メートルにわたり、1枚1トン以上ある天井板が連続して崩れ、走行中の車3台が押しつぶされた事故。神奈川出身を含む男女9人が死亡、3人が重軽傷を負った。長女の玲さん=当時(28)=は、都内のシェアハウスで暮らす20代の仲間と、車で山梨へ温泉旅行を楽しんだ帰り道だった。玲さんのほか同じワゴン車に乗っていた同居仲間4人も犠牲になった。

 居ても立ってもいられず、邦夫さんと和代さんは電車と新幹線を乗り継ぎ山梨へ向かった。道中で何度警察に尋ねても玲さんの容体は分からないまま。生きていると信じたかった。だが新幹線内で事故の悲惨さを伝えるニューステロップに打ち砕かれた。兵庫からでは最終電車に間に合わず、都内のホテルで一睡もできずに朝を待った。翌3日、玲さんは焼死体となり、DNA鑑定をするしかないと警察署で聞いた。

 8日。遺体との対面で再び山梨の警察署へ向かった。ひつぎの中で玲さんは白い布をかぶされていて、姿を見ることはできなかった。火災で手足も焼失したと言われた。後に見た現場には、乗っていた車の焼け焦げた跡が路面に残るほどだった。千度を超える灼熱(しゃくねつ)で焼かれ続けたとも知った。

◆二度と繰り返さぬために

 玲さんが生まれる4カ月前、住みやすそうだと選んだ芦屋市内の自宅には、玲さんが元気に笑う写真ばかりが並ぶ。同居仲間と楽しんだ地域の祭り。熊本・阿蘇山への旅行。まだ幼い玲さんら家族4人で思い切り歌を楽しむ姿─。

 音楽が大好きで、何事にも積極的な娘だった。小学校からブラスバンドに入った。音響工学の仕事を志していた。文系から理系転向した時は驚いたが、音響工学が学べる大分大と大学院に進学した。ジャズサークルでアルトサックスを演奏し、ドイツへ留学もした。事故当時は、夢の音響工学エンジニアに就職して2年目だった。

 「迷うんじゃなくて、これだ、というのがすごくある子だった」と和代さん。事故後、玲さんの職場の関係者から「世界で仕事をしてほしいと思っていた」と言葉をかけられた。「やらせてやりたかったなあ」。邦夫さんもつぶやいた。

 「なぜ娘は死ななければならなかったのか」

 無念を思い、邦夫さんと和代さんは問い続けてきた。事故の原因と責任を明らかにし、二度と繰り返さないため、できることを考えてきた。「インフラ設備の実態」と、「日本の司法の問題点」を知ったからだった。

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