余生を送っていた101歳の「ナチス戦犯」に禁錮刑、ドイツ司法機関が懸命の追跡 親衛隊の大物はみな死亡、残るは下級隊員

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所(第2収容所)に貨車で到着し、ガス室に行くかどうか選別を受けるユダヤ人たち。制服姿で手前に立つのはナチス親衛隊員、左手前の縦じまの服の人々は収容者。左奥は「死の門」と呼ばれた入り口。1944年、親衛隊撮影(エルサレムの記念館「ヤド・バシェム」提供・共同)

 今年6月、ドイツの首都ベルリン近郊の地方裁判所。地元に暮らす101歳の男に禁錮5年の判決が下った。罪状は3500人の殺人ほう助。男は第2次大戦下の約80年前、ナチス親衛隊の下級隊員で、ユダヤ人らが虐殺された強制収容所の看守だった。戦後は家族にも過去を語らず平穏な人生を送ってきたが、ついに追跡の手が伸びた。ドイツでは近年、ナチス戦犯の訴追を容易にする司法判断が出され、90歳を超す被告の裁判が相次ぐ。高齢化で追及は時間との闘いになり、捜査は数年後に終わるとみられるが、当局は国内外に残る資料を駆使して最後の1人まで追う構えだ。(共同通信=森岡隆)

 ▽モスクワで見つけた被告の名前

 ドイツ・ノイルピーンの裁判所で判決を受けたのはヨーゼフ・シュッツ被告。公判には車いすで出廷し、最後まで無罪を訴えた。実刑判決を身じろぎもせずに聞き、すぐに控訴の意思を示した。司法関係者は「前日のプロサッカーの試合結果もよく覚えている。頭は今もクリアだ」と話す。

2021年10月、ドイツ東部ノイルピーンの裁判所に出廷したシュッツ被告(左)(ロイター=共同)

 シュッツ被告は1942年から敗戦の45年まで、ベルリン近郊のザクセンハウゼン強制収容所に勤務した。大勢の看守の一人で、当時20代前半。所内ではこの間、ユダヤ人やドイツ軍に降伏したソ連軍捕虜が銃やガス室で次々と殺されていた。
 戦後は社会主義体制下の旧東ドイツの田舎町に暮らし、農場で働いた。一市民として社会に溶け込み、その名前が目立つことはなかった。

シュッツ被告がかつて勤務したザクセンハウゼン強制収容所の正面ゲート。中央にはドイツ語で「働けば自由になる」と記されている。建物の多くは戦後失われた=2020年8月、ベルリン近郊オラニエンブルク(共同)

 だが、余生は数年前に一転する。端緒はロシアの首都モスクワ。ナチス戦犯を追うドイツの司法機関「ナチス犯罪解明のための州司法行政中央本部」の係官が現地の公文書館に出向き、ソ連軍が戦後間もなく押収したドイツ側文書からシュッツ被告の名前を見つけたのだ。

 中央本部は1958年、ドイツ南西部の都市ルートウィヒスブルクに発足した。現在、検察官や裁判官ら法曹資格を持つ8人と文書庫担当者や通訳ら12人が所属し、戦犯容疑者を割り出して証拠を集める。ドイツではナチス犯罪の時効が廃止され、検察が中央本部から証拠の提供を受けて起訴に持ち込む。
 昨年10月に開かれたシュッツ被告の初公判には100歳のユダヤ人男性、レオン・シュワルツバウムさん=今年3月死去=が駆け付けた。ナチスが占領下のポーランドに設けたアウシュビッツ強制収容所と、シュッツ被告がいたザクセンハウゼン収容所の双方を生き抜いた人物で「ただ正義を望む」と語った。

アウシュビッツとザクセンハウゼンでの体験を記者に語るレオン・シュワルツバウムさん=2020年2月、ベルリン(共同)

 ▽転機となった2011年の司法判断

 ナチスはドイツや近隣の占領国に無数の強制収容所を設置し、10代後半の若者を含む何万もの人間が看守などとして勤務した。ドイツ敗戦後、英国など勝者となった連合国は収容所幹部や残虐さで特に知られた看守たちに死刑や禁錮刑の判決を下した。
 旧西ドイツでは1960年代にアウシュビッツにいた複数の元親衛隊員に対する裁判が行われ、旧東ドイツ当局も一部の元隊員を裁いた。

アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所(第2収容所)のガス室に向かうユダヤ人の親子。1944年、ナチス親衛隊撮影(エルサレムの記念館「ヤド・バシェム」提供・共同)

 ただ、裁判では容疑者自身が虐殺に直接加わったことを第三者らの証言で示す必要があった。歳月を経るにつれて証言を得ることは困難になっていく。収容所で勤務した人々の大半は罪を問われず、戦犯追及は決め手を欠きつつあった。
 転機は2011年に訪れた。労働に就くなど生存の余地があった強制収容所ではなく、収容者殺害を唯一の目的とした「絶滅収容所」で勤務した事実を証明すれば、殺人ほう助罪が成立するとの司法判断が出た。絶滅収容所に所属した人間を殺人装置の一部とみなす「画期的な判断」(ドイツ検察幹部)だった。
 風向きは変わった。中央本部は改めて容疑者の掘り起こしに力を注ぐ。「武器」は親衛隊員の個人情報などを記した約170万枚の検索カードをはじめ、半世紀以上にわたって集めた全長800メートル分の所蔵資料。これをさらに分析し、外部にも積極的に出向いて容疑者を捜してきた。

中央本部に保管されるナチス戦犯に関する資料=2021年10月、ドイツ・ルートウィヒスブルク(共同)

 ▽捜索には年金給付台帳も活用

 戦犯捜索は何年にも及ぶ地道な作業だ。検索カードに記された生年から、存命の可能性がある容疑者の名前を収容所別に抜き出し、出生地や過去の住所が分かれば現地に飛ぶ。同時に捜査当局や国内外の公文書館、収容所跡を管理・公開する記念館を訪れ、保管されている隊員の異動名簿や傷病名簿、給与簿など当時の文書を調べる。
 戦後に作成された年金給付台帳も力を発揮する。かつての隊員たちの名前と生年月日が載り、所在確認に有効だ。容疑者名を割り出して勤務地と期間を精査し、その場所が絶滅収容所の機能を持っていたかどうか証拠を積み上げていく。
 中央本部はさらに、多くのソ連軍捕虜が餓死など無残な死に追いやられた一部の捕虜収容所にも捜索の輪を広げ始めた。絶滅収容所と同じ機能があったとの考えで、専門家の歴史考証も踏まえて追及する。
 捕虜収容所に勤務したのは往々にして親衛隊員ではなく、一般のドイツ軍兵士だった。負傷や高齢などで前線への配属に不適と判断された兵士も多かったが、親衛隊員と同じく責任を負うことになる。

歓談するアウシュビッツ強制収容所所属のナチス親衛隊将校たち。手前右が初代所長ヘス親衛隊中佐。左から2人目が人体実験を繰り返した医師メンゲレ親衛隊大尉。戦後、ヘスはドイツで潜伏中に捕まり、1947年にアウシュビッツへ送られて絞首刑となった。メンゲレは南米に逃亡し、79年にブラジルで死亡した(アウシュビッツ・ビルケナウ博物館提供・共同)

 ▽収容所で働いた速記タイピストも訴追

 戦犯容疑者には女性も含まれる。ナチスの収容所網には3千人を超す女性が看守として配属された。多くが死や暴力が支配する世界を受け入れ、アウシュビッツなどではガス室に送られる人々の選別に加わった女性看守もいた。
 大戦後、一部が死刑や禁錮刑の判決を受けたが、結婚で姓が変わったケースも多く、追跡は難航してきた。
 ただ中央本部はこうした中でも証拠を集め、昨年10月にはポーランド北部に設置されたシュツットホーフ強制収容所で速記タイピストとして働いた96歳の女性被告の公判が始まった。当時10代後半で、所長の親衛隊将校が出した収容者の移送、処刑命令などを繰り返しタイプしたという。戦後も秘書として働き、周囲はその過去に気付かなかった。
 中央本部のトーマス・ウィル所長(62)には忘れられない体験がある。子どもの頃、知り合いが住む村に精肉店があり、店主はとても親切な人物だった。後年、戦犯を追う中でその名前に行き当たる。店主は大戦中、ポーランドに設けられ、多数の収容者が虐殺された強制収容所で看守を務めていた。当人は既に世を去ったが、裁きを受けることはなかった。ウィル氏は「戦後のドイツには収容所で勤務した何万もの人間がいた。彼らは社会のまっただ中にいたのだ」と話す。

中央本部のトーマス・ウィル所長。引き出しに入っているのは容疑者の個人情報などを記した検索カード。約170万枚ある=2021年10月、ドイツ・ルートウィヒスブルク(共同)

 ▽残っているのは下級隊員ばかりだが…

 中央本部は昨年、八つの事案を証拠にまとめ、検察に引き渡した。男性6人と女性2人で、強制収容所と捕虜収容所双方の関係者が含まれる。
 訴追手続きは容疑者の健康状態に問題があれば中止され、公判が始まっても判決確定まで長い時間がかかる。高齢の戦犯の罪を問うことへの疑問も語られるが、犠牲者親族の側で数十件の裁判に関わってきたドイツ人のトーマス・ワルター弁護士(79)は「戦犯の年齢ばかりが注目されるが、乳児から高齢者まで、罪なき人々が生きながらに焼かれたり、ガス室に送られたりした。被害者に思いをはせることが何よりも大切だ」と語る。

犠牲者親族の弁護に関わってきたトーマス・ワルター弁護士。「罪無く殺された被害者にこそ思いをはせて欲しい」と訴える=2021年11月、ベルリン近郊(共同)

 ワルター氏は一部の戦犯だけに有罪判決が下されたドイツ司法界の状況を苦々しい思いで見てきた。「この国がこれまでナチス犯罪に正面から向き合ったとは到底思えない」との立場だ。
 だが、その中にあって2011年の司法判断はその後の裁判の道しるべとなり、高齢になった犠牲者の親族は正義の裁きが下ることを今も心待ちにしていると訴える。
 第2次大戦の終結から77年。中央本部のウィル氏にとって捜査は常に時間との闘いだった。親衛隊の大物はみな死亡し、存命するのは10代後半から20代前半で敗戦を迎えた下級隊員ばかり。その彼らも毎年、相次いで世を去っていく。
 だが、虐殺を直接実行したのは多くの場合、下級隊員だった。ウィル氏は「彼らは収容者の身に何が起きたか知っていた。捜査は数年後に終わるだろうが、法がある限り最後まで追う」と強調する。追及に年齢は関係ない。下級隊員なしに虐殺は起こり得なかった。「これは個人の罪なのだ」

ドイツ南西部の都市ルートウィヒスブルクにある中央本部=2021年10月(共同)

© 一般社団法人共同通信社