「パリ人肉事件」の佐川一政氏が死去、実弟が語る素顔「包丁を手に、楽器壊され、晩年寝たきりも仲良く」

「パリ人肉事件」で世界を戦りつさせ、帰国後は作家活動を続けていた佐川一政さん(享年73)が11月24日に肺炎のため都内の病院で死去していたことが1日、遺族らから公表された。一夜明けた2日、喪主を務めた実弟で、2019年に兄についてのエピソードなどを描いた書籍「カニバの弟」(東京キララ社)を世に出した佐川純さん(72)がよろず~ニュースの取材に対し、亡くなる前の状況や兄との関係、思春期の素顔などについて語った。

1歳違いの佐川兄弟は神戸で生まれ、5、6歳で鎌倉に転居。一政さんは和光大、関西学院大大学院を経て77年にフランス留学した。パリ第3大学に在籍していた1981年6月、オランダ人留学生の女性を自宅に招いて射殺、その肉を食べ、トランクに死体の一部を詰めて遺棄した容疑などで逮捕された。事件はセンセーショナルに報じられたが、精神鑑定の結果、「心神喪失状態」として不起訴処分となり、84年に日本に送還された。

この衝撃的な事件は文学や音楽などの表現にも影響を及ぼした。劇作家・唐十郎は一政さんとやりとりした手紙を小説にした「佐川君からの手紙」で82年の芥川賞を受賞。世界的なロックバンドであるザ・ローリング・ストーンズは同事件に言及した曲「トゥー・マッチ・ブラッド」を83年にリリース。本人も事件の詳細を小説仕立てにした手記「霧の中」(83年)を出版して作家活動に入り、その後も東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(88年~89年)などではコメンテイターとしてテレビ番組に出演。ビデオ作品やイベントなどでその存在を示していた。

だが、2000年代以降は徐々に表舞台から遠ざかっていく。純さんの著書「カニバの弟」によると、一政さんは脳梗塞と統合失調症の疑いで2013年末に都内の病院に入院し、翌年から脳梗塞と糖尿病の治療が始まり、15年の時点で寝たきりの状態だったという。19年には仏米合作のドキュメンタリー映画「カニバ パリ人肉事件38年目の真実」が公開され、療養生活を送る近況が作品内で確認された。

純さんは当サイトに「最初の頃は自宅で僕が介護して、オムツを替えたりとか全部やっていました。その後、喉を詰まらせて病院に入って、それからはずっと、いくつか病院を変わりながら生活していました。要介護度も5までいってしまった」と振り返る。

一政さんは2013年11月に都内で開催されたイベントで来場者を対象にした似顔絵コーナーを持ち、鉛筆画を描いていた。その際に記者は本人と対面したが、同年末の入院前のことで、体調の悪さは感じさせなかったが、それが公衆の面前に出るほぼ最後の姿だったのかもしれない。

死に目には会えなかったという。「容体が悪くなり、病院から『すぐ来てください』と連絡があって駆け付けましたが、間に合いませんでした」。そう語る純さんに、弟から見た兄のエピソードを聞いた。

「お互いに大学生の頃、母親が入院していた時に兄弟2人で過ごしていた時があって、僕が洗濯し終わったら、兄が汚れたものを持ってきて、また洗濯機に入れた…みたいなことで大げんかになって、包丁を持った兄に追いかけられた。僕はあわてて部屋に入って待っていたら、ものすごい音がしたんです。それは僕の(愛用していた楽器)チェロを壊す音だった。これは本に書きましたが、昔の話ですし、最後の方は仲良くやっていました。大学時代に楽器を壊されたことなどはすっかり忘れて。子どもの頃と変わりなく、兄貴は兄貴として仲良く過ごしていました」

一政さんには思春期の頃から「劣等感」があったという。

純さんは「(容姿に対して)皆さんからじろじろ見られたりするので、劣等感みたいなものがどんどん募っていったんだと思います」と証言。一方、事件後は「霧の中」をはじめ、「サンテ」「生きていてすみません」「カニバリズム幻想」「新宿ガイジンハウス」「業火」「まんがサガワさん」など多くの著書を残す。「彼はそうやって活動することで落ち着いてきた。絵もアマチュアですが描いていた」と、表現活動によって生きられたという側面も明かす。

純さんは兄の訃報に「ご時世柄、身内だけの葬儀でした。お世話になった方々へは申し訳ありませんが、今後もお別れ会等の予定はございません」とつづった。事件から41年。殺(あや)めた側の死によって、あの出来事は歴史の中に封印されてくのだろうか。

(デイリースポーツ/よろず~ニュース・北村 泰介)

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